プロフィール

梅星

Author:梅星
社会人になっても、いつもいろいろな空想の世界を思い描いていました。
その中で、ずっと書きたかったお話(小説)をブログという世界を使って紹介させていただきます。
無理なく肩の力を抜いて続けていきたいと思いますので、楽しんでいただけたらと思います(毎週更新予定です)。
初めて読まれる方は、『あらすじ』も並行して読んでいただければ、読みやすいかと思います。
お楽しみください。

尚、文中の登場人物、会社等すべてフィクションです。


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よろしくお願いします。


DATE: CATEGORY:第8章 灯火
悠美が居間に入って行くと、テレビを見ていた春彦はすぐに気が付き、悠美の方を向いた。
春吉も悠美に気が付いて声をかけた。
「悠美さん、お風呂どうだったかな?
 温まったかな?」
「はい、とても気持ち良かったです。
 それにとっても温まりました。」
「そうか、あ…。」
そう言いながら春吉は悠美を見て、一瞬、言葉を忘れてしまった。
よく見ると悠美は、しなやかな黒髪を後ろで束ね、顔は丸みを帯びた輪郭、眼は大きく二重瞼で、唇は健康的なピンク色をしており、誰が見ても美人と思える顔立ちだった。
また、洋服だと体のふくらみが分かりにくく、特に悠美はどちらかというと着痩せするタイプだったので、スウェットの上下だと胸や腰回りなどのふくよかな身体の線が浮き彫りになっていいたのと、風呂上がりにオイルを塗ったせいか、血色の良い頬が一段と悠美を際立たせていた。
「?」
悠美がどうしたのだろうと春吉を見ると、キクがすかさず「あなた!」と声をかけた。
その言葉に、春吉はハッとし、ゴホンと咳払いをした。
「い、いや、うちのお風呂は、自慢の風呂で、気持良かったかなって。」
「はい、とっても。」
春吉がぎくしゃくした言葉で声をかけたが、悠美は嬉しそうな顔をして頷いた。
「じゃあ、悠美さんも麦茶でいいかしら。」
キクが笑いながら立ち上がると、「私も」と悠美が続いた。
「その恰好、寒そうね。
 この辺りは、夜は寒いのよ。
 ちょっと待っていて。」
キクは、スウェット姿の悠美を見てそう言うと居間を出て、しばらくすると黄色の花柄の半纏を持って戻ってきた。
「これ、綿入れ半纏なの。
 温かいわよ。
 それに舞さん用なの。
 舞さんが来ると寒い時に必ず羽織っているのよ。
 クリーニングに出したばかりで、きれいだから着てみない?」
「まあ、ありがとうございます。
 舞ちゃんのなら、喜んでお借りします。」
悠美はニコニコ笑いながら半纏を羽織ってみた。
「わー、温かい。」
「そうでしょ。
 よこれば、ここにいる間は、使ってちょうだいね。」
「ありがとうございます。
 代わりにと言ったらなんですが、キクさん、顔にオイルとかつけています?」
「いいえ、私は普通のローションだけよ。」
「いま、私の学校で顔につけるオイルが流行っているんです。
 それをつけると肌荒れ防止で、しっとりするんですよ。
 私も今付けているんです。
 ちょっと触ってみませんか?」
そう言って悠美は頬をキクの方に差し出した。
キクは、そーっと頬を触ると大げさな顔をした。
「まあ、ほんとにしっとり、プルンプルンね。」
「そうなんです、おばあちゃんにもつけてあげたら好評で、買ってきてって。
 キクさんも後でつけてみませんか?」
「え?
 いいの?」
キクと悠美が話で盛り上がっていると、春彦が台所入って来て悠美の半纏の端を引っ張った。
「ねえ、お腹が空いた。」
「あ、ごめんね。
 いま持っていくから。」
キクがそう言うと、悠美がすかさず声をかけた。
「キクさん、私持っていきます。」
「じゃあ、私お吸い物を用意するわね。」
悠美とキクは大慌てで夕食をテーブルの上に並べて言った。
「まったく、食事を忘れて、なにやっとんじゃい。」
春吉が憮然した顔で言うとキクが言い返した
「だって、女同士の話ってあるんですよ。
 家で舞さん以外と話をしたことないんですもん。」
キクの楽しそうな声やキクの気持ちがわかったいるので春吉は、それ以上何も言わなかった。
「さあ、じゃあ食べよう。」
春吉の一声で、皆声を揃えて「いただきます。」を言うと、悠美は眼を輝かせて春彦の取り皿を手にした。
「わあ、このトロ、イカ、エビおいしそう。
 あ、貝もある。
 春ちゃん、イクラもあるよ。
 ほら、こんなに大きな卵焼きも。」
悠美は、きゃあきゃあ言いながら、春彦に寿司を取り分けていた。
「春彦ちゃん、ワサビ大丈夫って言ったからさび抜きにしていないのよ。」
キクが感心したように言う。
「そうなのか。
 春彦も大人かな。」
「でも、この前、ワサビ食べて泣いていたじゃない。」
「だってあれって、悠美ちゃんが我慢大会って言ってワサビを追加するからだよ。」
春彦はむくれた顔をした。
「あら、僕もやるっていったじゃない。」
悠美はすました顔をした。
「う、でも、あれは、あの量は反則…だ。」
「まあまあ、もういいじゃない。
 今日は美味しく食べましょうね。」
悠美の笑顔に春彦は静かに頷き、寿司を一つ頬張った。
悠美と春彦のやり取りを春吉とキクは飽きもせずに眺めていた。
「しばらくは、こんなにぎやかな食卓かしらね。」
キクが嬉しそうに言うと、春吉も嬉しそうに頷いていた。

にぎやかな夕食が済み、片付けを済ました後、悠美と春彦は春吉とキクにお休みの挨拶をして部屋に戻った。
「夕飯、美味しかったね。
 おばあちゃんの手作りも美味しいけど、お寿司も美味しいね。」
春彦が、満足そうな声を上げた。
「そうね、ほんと、お腹いっぱいになっちゃった。
 春ちゃん、ちょっと背中を押して。」
悠美は前屈の姿勢を取って春彦に声をかけた。
「え?
 うん。」
春彦は、後ろから悠美の背中を押した。
「毎日、ストレッチをやらないと、すぐに太っちゃうのよ。」
「え?
 だってこんなに細いのに?」
幼い春彦は、まだ、女性の気持ちがわからず、ありのままの感想を言った。
「まあ、ありがとう。」
悠美の声は明らかに喜んでいた。
「今度は開脚前屈。
 また、押してね。」
それから、腹筋背筋の脚持ちなど、たっぷりと春彦は悠美に付き合わされた。
「本当はね、お風呂に入る前にやりたかったんだけどね。」
「でも、お風呂上がりの方が、体が柔らかくなるって言うじゃない?」
「そうだけど、汗かくでしょ?
 寝る時は汗をお風呂で流した方が気持ちいいじゃない。」
「そうだね。」
「じゃあ、今度は春ちゃんの背中を押してあげる。
 まずは、足を揃えて。」
「ええ、いいよ。」
「いいから、いいから。」
そう言われ春彦はしぶしぶ前屈をした。
「えい!」と悠美は背後からのしかかるように身体押し付けた。
春彦は、背中に悠美の胸の柔らかさと息がかかるくらいに近づいた悠美のいい香りを感じた。
「あら?
 春ちゃん、結構柔らかいじゃない。
 子供って、皆柔らかいのかしら?
 佳奈ちゃんも結構柔らかかったわよ。」
(悠美ちゃん、佳奈にも手を出していたんだ…)
春彦は半分呆れた。
「あっ、でも、木乃美ちゃんは、硬かったわ。
 押したら、ピーピー泣いていたもん。」
(木乃美が可哀想に…)
春彦は思った。
「毎日ストレッチするといいわよ。
 春ちゃんも毎日やりなさいね。」
「はーい。」
春彦は、空返事で答えた。
「あと、明日から学校だからね。
 忘れ物とかない?
 下履きは?
 コップは?
 テーブルクロスは?
 ハンカチ、チリ紙は?
 宿題は終わっているよね?」
「うん。
 朝、悠美ちゃんに言われて、おばあちゃんと準備しておいたよ。
 宿題もちゃんと終わっているし。」
「よーし、えらいわ。
 じゃあ、昼間は、ちゃんとおじいちゃんとおばあちゃんの言うこと聞くのよ。」
「うん。」
「私は、朝早いから春ちゃんが起きる頃にはいないから。
 夕方には帰って来るわ。」
「はーい。」
「じゃあ、布団に入って、休みましょう。
 早く、お布団に入らないと…。」
そう言って悠美は布団の中に入ろうとしている春彦の両脇を後ろからくすぐった。
「うわ、反則、反則だって!」
「じゃあ、早く入りなさい。」
「はーい。」
今度は、春彦がわざと布団から足を出す。
「こら、ちゃんとお布団の中に入らないと…。」
そう言って悠美が春彦の上にのしかかろうとすると、さっと春彦は足を布団の中にひっこめる。
それを2回ほど繰り返すと、悠美は春彦にのしかかり容赦なく春彦をくすぐった。
「タンマ、タンマ、足、ひっこめてるって!」
春彦は悲鳴のような声を上げ、笑いながら身体をよじった。
「何言っているの、私をからかった罰よ。」
そう言って、悠美は春彦が降参するまでくすぐり続けた。
「こ、降参です…。」
悠美は、春彦に馬乗りになったまま笑みを浮かべていた。
「よーし、じゃあ、本当に電気消すからね。」
そう言って悠美は電気を消して布団に入った。
「ねえ、悠美ちゃん。」
春彦が悠美に話しかける。
「ん?
 なあに?」
「光ちゃん、運転上手なの?」
「え?
 うーん、まあ、上手かしら。」
「いいなぁ。
 ぼくも大きくなったら車を運転するんだ。」
「じゃあ、私を助手席に乗せて、ドライブに連れて言ってね。」
「うん、いいよ。
 どこでも連れて行ってあげる。」
春彦は眼を輝かせて答えると、悠美は嬉しそうな顔をした。
「うふふふ、それは楽しみだわ。
 じゃあ、お休み。」
「おやすみなさい。」
するとすぐに春彦の寝息が聞こえてきた。
悠美は布団から起き上がり、春彦が布団をはいでいないか確認し、そっと部屋から出て行った。
トイレを済ませ、手を洗って客間に戻る途中に、2階に上がる階段があり、その階段の上には春繁の部屋があった。
悠美は、階段の下で立ち止まると、下から階段の上の方を寂しげに見つめ、小さなため息をつくと春彦の寝ている客間に戻っていった。
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DATE: CATEGORY:第8章 灯火
荷造りが一段落すると悠美は、母親の敏子に尋ねた。
「そうだ、今日は光ちゃんいる?」
“光ちゃん”とは、南雲光一、悠美の6歳上の兄のことで、悠美は小さな時から「光ちゃん」と呼んでいた。
「光一なら、部屋で昼寝してるわよ。」
「ラッキー!
 荷物を持つの手伝ってもらおう。」
すると部屋のドアの外から声が聞えた。
「何、がたがたやっているかと思ったら、なんだ、その荷物?
 家出でもするのか?」
声の主は光一だった。
光一は、身長が170㎝位の細身で、七三分けの髪型に黒縁のメガネをしていた。
光一は昼寝をしていたが、荷造りする音と敏子と悠美の会話で寝てられず、起き出して来たので、起き抜けの寝ぐせのついた髪の毛と眠そうな顔をしていた。
「そうじゃないのよ。」
そう言って、敏子は事の顛末を光一に言って聞かせた。
「ふーん、それで、この荷物なのか。」
「そうなのよ。
 で、光ちゃん、お願いがあるんだけど。」
悠美は猫なで声を出した。
「まさか、この荷物を立花の家に運ぶのを手伝えっていうのか?」
「そのとおり♪」
悠美は、にこやかな顔をして言った。
「やれやれ。」
光一は可愛がっている妹の悠美の頼み事を断ることが出来なかった。
それに運転免許を取って、運転するのが楽しく、清志の車を良く運転していた。
「ここから、立花の実家までだと、道が空いていれば車で2時間もかからないか。」
「ちょっとした気分転換のドライブになるでしょ?」
「ちょっと?
そんな距離じゃないだろう…。
まぁ、しょうがないな。」
「やったぁ、光ちゃん大好き。
 今度、ジュースおごるね。」
「俺、ビールの方が良い。」
「何言っているの、私はまだ未成年なんだから。」
「はいはい。
 じゃあ、この荷物、もう車に運んでいいかな?
 あ、母さん、今日車あるよね?」
「ええ、あるわよ。
 お父さん、町会の集まりで皆さんと宴会中だから。」
「そりゃー、車には絶対に乗れないな。」
そう言って光一は悠美の荷物を車に運んだ。
「くれぐれも、立花さんには迷惑を掛けないようにしなさい。」
「はい、おばあちゃん。
 行ってきます。」
そう言って悠美は常吉とサキ、それに敏子の見送りの中、光一の運転する車で家を後にした。
 
「2週間か?」
運転しながら光一が話しかける。
「うん、体調の回復を見てだって。」
「舞さんもたいへんだったな。」
光一も小さな時からちょくちょく、春繁と舞に遊んでもらっていたので二人のことを慕っていた。
「そうなのよ。
 顔色も悪いし、げっそりやつれていたし。」
悠美は眉間に皺を寄せた。
「そうなんだ。
 今日、お前のこと送って行ったら、帰りに様子を見に寄ってみるかな。」
「そうして。
 母さんもあとで行くって言ってたけど、舞ちゃん、光ちゃんの顔見ればきっと喜ぶから。」
「ああ、わかった。
 お前も春彦のこと、ちゃんと面倒見てな。」
「わかっているわよ。」
「それと、悠美がいないと皆が寂しがるから、たまには帰って来いよ。」
「えー、何かお嫁に行くみたいなこと言わないで。」
「たしかに。」
それには、ふたりとも車の中で吹き出してしまった。
立花の実家の近くに来ると、車窓から見える風景が随分変わってきた。
それまでは、住宅地が多かったのが、風景が農村地帯に変わってきたようだった。
隣接する家までの距離も離れ、遠くに山並みも見えてきた。
「ここいら辺は、のどかな田舎だよな。」
「そうね。
 でも、静かでいいところ。」
「俺には、無理だな。
 やっぱり都会の喧騒の中がいいや。」
「何、都会っ子ぶってるのよ。」
そんな話をしながら、光一の運転する車は立花の実家の前に着いた。
荷物を降ろし、春吉とキクが休憩していけという勧めを、舞の病院に寄りたいからと丁重に断ると、車に乗り込んだ。
「春彦、元気出せよ。」
光一は運転席の窓を下ろし、春彦の頭を撫でた。
「うん、光ちゃんも気を付けてね。」
「おう、じゃあ。」
春彦と短い会話を交わし、光一は車を走らせた。

「さてと、春ちゃん、荷物運び込むの手伝って。」
「うん。」
悠美は当てがられた客間に荷物を運びこみ、制服など皺になるものをえもんかけにとおし、鴨居にかかっている鴨居かけに掛けたり、一通りの用事を終わらせ、春彦と居間に向かった。
居間には、春吉とキクが笑顔で二人を待っていた。
「荷物の紐解きは終わったのかな?」
「はい。」
そう言って悠美は畳の上に正座し丁寧にお辞儀をした。
「しばらく、お世話になりますが、どうぞ、よろしくお願いします。」
悠美の口上を聞いて春彦もあわてて悠美の横にちょこんと座って、同じようにお辞儀をし、「よろしくお願いします。」と春吉たちに向かって言った。
「そんな、かしこまらなくていいから。」
「そうよ。
 二人とも、ここを自分の家だと思って使ってちょうだいね。」
「ありがとうございます。」
今度は悠美と春彦は声を合わせて返事をした。
「さて、もう5時を回っているか。
 春彦と悠美さん、お風呂が沸いているから入りなさい。
 悠美さんは昨日、今日と忙しかったから疲れているだろう。」
「いえ、大丈夫です。
 夕飯の支度、手伝わせてください。」
そう言って悠美はキクの方を見る。
「今日はね、お寿司にしたの。
 お寿司と言っても買ってきたのを並べるだけなのよ。
 それにお吸い物も買ってきたから、支度は大丈夫。
 だから、お風呂に入って頂戴。」
キクは、笑顔で悠美に言った。
「そうですか…。
 じゃあ、春ちゃん、お風呂に入ろう!」
「え?
 悠美ちゃんと?」
今度は春彦が飛び上がった。
「何言ってんのよ。
 パジャマ出しておいてあげるから、先に入りなさい。」
「はーい。」
春彦は思い違いに照れ臭さを感じた。
春彦がお風呂に入っている時、悠美は台所のキクのところに顔を出した。
「悠美さん、家に来てからお茶も何も出していなかったわね。
 ごめんなさいね。
 お茶でも、どう?
 口に合うかわからないけど、お饅頭もあるわよ。」
「ありがとうございます。
 でも、夕飯が近いので、また後でいただきます。
 それより、お寿司並べたりするの手伝いしますね。」
「まあ、いいわよ。
 今日はゆっくりしていて。
 それはそうと、明日は何時に家をでるの?」
「はい、ここを6時に出ようかと思っています。
 早くて済みません。」
「いいえ、この前話したように、うちは朝早いのよ。
5時には起きているから。
この時期5時に起きても外は真っ暗なのにね。
でも、6時も真っ暗よ。
たいへんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。」
「じゃあ、朝ごはんは5時半ごろでいいかしら?」
「いえ、朝ごはん何て、とんでもない。
 学校の近くのパン屋さんで買いますから。」
「そんなこと言わないの。
 家に居る時は、私の子供と一緒、ね。」
「キクさん。」
悠美はキクの優しさに感激していた。
結局、悠美がお寿司を並べていると春彦がお風呂から上がってきた。
「悠美ちゃん、お風呂空いたよ。」
「はーい。」
「悠美さん、本当にもういいから、お風呂に入って頂戴ね。
 春彦くんは、お風呂上り麦茶でいいかな?」
キクも、だんだんと春彦たちの扱い方に慣れてきていた。
「じゃあ、遠慮なく、お風呂いただきますね。」
「はい、そうしてね。」
その会話を聞いて春彦は不思議に思った。
「ねえ、なんでお風呂いただきますっていうの?」
「え?」
悠美は一瞬言葉に詰まった。
それを見て、キクは横から口を挟んだ。
「春彦ちゃん、それはね、昔は今と違ってお風呂がある家とない家が普通にあったの。
それで、お風呂のない家にお人がお風呂のあるうちの人のお風呂を借りて入っていたの。
だから、“いただきます”て言う言葉が残ったの。
その方が丁寧に聞こえるでしょ?」
「へえ、そうなんだ。
 じゃあ、その昔は銭湯なんてなかったんだね。」
「え?」
キクと悠美は、思いもしなかった春彦の反応に返す言葉が見つからなかった。

「まいったなぁ、あんな切り返しをしてくるなんて。」
悠美は湯舟にゆったりと浸かりながら、春彦の言った言葉を思い出していた。
「でも、面白いな、春ちゃんて。
 繁おじさんの影響かしら、それとも、舞ちゃんの影響かしら。
 そう言えば、舞ちゃん、どうしたかな。
 あのおまじない、効いてくれるといいんだけれど。」
風呂場の窓から夜空に浮かぶ月の灯りが湯舟を照らし、悠美の身体もぼんやりと光輝いているようだった。
お風呂から出ると悠美は、さすがにパジャマでは気が引け、グレーの上下のスェットに着替えた。
そして、持ってきたドライヤーで髪を乾かし、後ろで束ね、最近学校でブームになっているオイルを顔に塗った。
「これって、おばあちゃんも気持ちいいって言ってたな。
 あとで、キクさんにも貸してあげよう。」
悠美が居間に入って行くと、すでに全員集まってテレビを見ていた。
DATE: CATEGORY:第8章 灯火
その日の昼過ぎに、悠美と春彦、そしてキクの3人は、舞の入院している病院に見舞いに訪れた。
舞の名前が掛っている病室に入ると、サキがベッドの横の椅子に座っていた。
病室は4人部屋で、舞のベッドは窓際にあり、舞は、上半身を起こし枕を腰あてにして、ぼーっと外を眺めていた。
サキが3人に気が付くと、舞の肩を小突いて春彦達が来たことを教えた。
「春彦ちゃん、悠美、こっちこっち。」
サキは、春彦と悠美を手招きし、立ち上がると自分の座っていた席に春彦を座らせ、キクの方を向いて挨拶を交わした。
「立花さんもわざわざ見舞いに来ていただきすみません。」
「いえ、とんでもない。」
キクが挨拶を返している時も舞は窓の外を見ていた。
「お母さん?」
春彦がそう呼ぶと、舞は初めて気が付いたように、春彦と悠美それに悠美の肩越しにキクを見た。
そして、キクの方に力なく会釈すると、春彦の方に目を落とした。
「お母さん、具合はどう?」
春彦が心配そうに尋ねる。
「ごめんね、春彦…。
 お母さん、ちょっと…具合が悪くなっちゃって…。」
舞は、次の言葉が出ずに黙ってしまった。
「具合はいかがなんですか?」
キクがサキに話しかけた。
「ええ、昨日よりだいぶ落ち着いてきましたわ。
 ただ、あんな調子で、今日は朝からボーっとしているんです。」
「無理もないですわ。」
サキとキクの小声の会話を悠美はじーっと聞き耳を立てて聞いていた。
「悠美?」
「は、はい。」
不意に舞に名前を呼ばれ悠美は慌てて舞の方に目線をやり、舞の顔をまじまじと見つめた。
(舞ちゃん、やっぱり顔色が悪いし、げっそりやつれている。)
悠美はそう思った。
「昨日は一晩中、春彦に付いていてくれたんだって?
 ありがとう…。
 お義父さんやお義母さんがいるから大丈夫と思ったんだけど、悠美までいてくれたって聞いてほっとしたわ。
 春彦…、寂しがったり、泣いたりしなかった?」
「ええ、大丈夫。
 春ちゃん、すごくいい子だったから。」
悠美は、春彦が泣いたことは伏せていた。
「そうなんだ。
 春彦は強かったんだ。
 悠美がいてくれたから、寂しくなんてなかったもんね。」
舞は、片手で春彦の頬を撫でて言うと、春彦は、黙って頷いた。
「春彦…、ごめんね…。
 お前の弟か妹が……。」
舞は、悲しそうな顔をして言った。
「ううん。
 僕は早くお母さんが元気になってくれれば、それでいい。」
春彦は、力強く言った。
「優しいね、春彦は。」
舞はそう言うと悠美の方を見上げた。
悠美は、舞が何を言いたいのか分かった気がして黙って頷いた。
「明日から学校に行かなくちゃね…。」
舞は、再び春彦に目をやった。
「ええ、舞さんが元気に退院するまで、ちゃんと家で春彦ちゃんを預かるから大丈夫よ。
 学校も、私とお爺さんで送り迎いするから大丈夫。
だから、安心して身体を治して頂戴ね。」
キクが、優しく声をかけた。
「お義母さん、すみません。
 大変でしたら、学校を休ませても…。」
「大丈夫よ。
 こっちは気にしないで。」
「それに、暫く悠美も一緒に立花さんのお宅にご厄介になるの。
 キクさん、遠慮なく悠美をこき使ってくださいね。」
「おばあちゃん!」
悠美は、泊ることが正式に許可されたと知ってほっとした。
「そうなのよ。
 悠美さんたらお料理とかできるんでびっくりしちゃったわ。」
「悠美…。
 いつも、ありがとうね。
 何かあると、ついつい頼ってしまって……。」
舞の眼から一筋の涙が零れ落ちた。
「舞ちゃん。
 そんなのいいから、早く元気になってね。
 舞ちゃんの卵焼きやコロッケカレー、私も春ちゃんも楽しみにしているんだから。」
「うん。
 でも、あなた、学校とかあるんじゃないの?」
「大丈夫よ。
 ちゃんと通えるから。」
舞は話をしている最中もずっと春彦の手を握り締めていた。
「春彦の手、温かいわ。」
心なしか舞の頬に少し赤みが差して来た。
少ししてからサキは悠美を促して帰ることにした。
「さあ、悠美。
 ひとまず、引き上げましょう。
 お前は、明日からの準備があるでしょ?」
「そうだったわ。
 帰って荷造りしないと。
 じゃあ、舞ちゃんはゆっくり休んでね。」
「舞、あとで敏子さんが来ると思うから、何かあれば言いなさい。」
「はい。」
キクも舞の身体を気遣って、春彦の肩に手をやった。
「じゃあ、私達もこれで帰りましょう。
 春彦ちゃん、お母さんをゆっくり休ませなくっちゃ、ね。」
キクがそう言うと、春彦は頷いた。
「お母さん、早く元気になってね。
 待っているから。」
「うん。」
舞はそう言うと、もう一度、春彦の手を名残惜しそうに握ってからゆっくり手を離した。
皆が病室の出口に向かった時、悠美が不意に舞のベッドに戻り、舞の肩を抱きながら何やら耳打ちをすると舞は最初は驚いたように目を見開いたがすぐに「うんうん」と頷いていた。
病室の外では、春彦達が待っていた。
「どうしたの?」
サキが悠美に尋ねる。
「えへへ、内緒。
 ちょっと内緒話を。」
「ふーん。」
「で、サキさん、舞さんの具合はいかがなんでしょうか。」
「ええ、流産の方は1週間は安静が必要だそうです。
 その後も予後としてあまり無理しないようにとのことです。
 あと、問題なのは栄養失調と心の回復だそうで、2週間くらいは入院して体力をつけた方がいいそうです。」
「2週間ですか…。」
「長くなりますので、春彦ちゃんを預かるのたいへんでしょう。
 我家と交互に預かっても構わないのですが。」
「いえ、春彦ちゃんのことは大丈夫です。
 ただ、ここまで大事にさせてしまって、申し訳なくって…。」
キクはそう言いいながらうな垂れる。
「そんな、キクさんのせいじゃありませんよ。
 いろいろなことが重なってしまったっていうことです。
 もう自分をお攻めにならないで。」
「はい。
 ありがとうございます。」
キクはそう言うと、何か手に温かいものが触れた気がして、手を見てみると、春彦がキクの手を掴んでいた。
「まあ、春彦ちゃん。
 ごめんね、おばあちゃん、大丈夫だから。」
キクは心配して手を握ってくれた春彦に笑顔を作って頷いて見せた。
「じゃあ、春ちゃん、あとで行くからね。」
「うん。」
病院を出たところで2組、サキと悠美、キクと春彦は別れ、お互いの家に向かった。

「悠美、さっき、舞に何て言ったの?」
サキが病室を出る時悠美が舞に耳打ちした内容について尋ねた。
「え?
 ああ、あれ?
 “春ちゃんが、お父さんが居なくなって、守らなくちゃいけないお母さんまでいなくなっちゃって、寂しくて泣いてたの。
 舞ちゃんには、まだ春ちゃんがいるんだから、早く元気になって春ちゃんのところに戻ってあげてね。“
 って。」
「ふーん、そんなこと言ったの。」
サキは、なにか考え事をしていたが、それ以上、何も言わなかった。

家に帰ると悠美は急いで荷造りを始めた。
「悠美、あなたちゃんとできるの?
 向うの方に迷惑かけちゃいけないんだからね。
 お洗濯は、どうするの?
 まさか、洗濯までしてもらうつもりじゃないでしょうね。
 で、本当にちゃんと学校に行けるの?
 いくら推薦が決まっているからって、卒業できなかったら意味がないからね。
 お昼のお弁当はどうするの?
 夕飯は、どうするの?
 一度、家に帰って来て、食べて戻る?
 電車賃は?
 お小遣いは?」
悠美の母親の敏子が悠美にくっついて何かと質問攻めにする。
「大丈夫よ。
 ちゃんと電車の時間を確認したから。
 お洗濯は、洗濯機を借りて春ちゃんと私の分だけ別に洗わせてもらうし、ご飯は外で食べるわよ。
 それに、一度家に帰って食べたら、夜になっちゃうわよ。」
「電車賃やご飯代は?」
「うーん、それが困ったわ。
 お年玉いくら残っているかしら。」
「馬鹿言ってないの。
 そのくらいちゃんと出してあげるわよ。
 荷物詰め込むバッグはあるの?」
「ありがとう!
 バッグ?
 この前、修学旅行で1週間行ってたじゃない。
 その時持っていったスーツケースがあるから、それに詰めて、あと勉強道具とかも。
 大きな肩から掛けるバッグもあったからそれも使うわ。」
「そ…う。
 あ、あと洗面道具やお化粧品は?
 何か、足りないものは?」
敏子は急な話で、半分気が動転しているようだった。
尚も気にする敏子に、悠美は笑って頷いた。
「大丈夫だって、お母さん。
 それより、サキちゃんが立花さんのところに何か手土産でもっていってたわよ。」
「え?
 たいへん。
 そうよね、まさか手ぶらでなんてわけにはいかないものね。
 ちょっとお義母さんと相談してくるわ。」
敏子は、バタバタと悠美の部屋を出て行った。
「まったく、私をいくつだと思っているのかしら。」
そう言いながら、悠美は自分を心配してくれる母が嬉しかった。
DATE: CATEGORY:第8章 灯火
「え?
 しばらく、この家に春彦ちゃんと一緒に泊まらせてほしいですって?」
キクは驚いた声を上げた。
春吉は、無言だったが眼を見開いて、悠美を見つめた。
「はい、舞ちゃんが退院するまで、春ちゃんの傍にいてあげたいんです。
 だめでしょうか?」
悠美は真剣な顔だった。
「だって、悠美さん、学校は?」
「ええ、それなら、さっき調べたんですが、この家を朝6時頃に出れば、丁度いい電車があるので、十分、間に合います。
 朝ごはんやお昼ごはんは学校の食堂で食べますので、大丈夫です。
 ですので、なるべく御迷惑をおかけしないようにしますので。
 夕飯も済ましてきますから、寝る時だけでも春ちゃんの傍にいてあげたいんです。
 だめでしょうか?」
春吉とキクは顔を見合わせた。
「それは、我家(うち)としては構わないというか、逆に春彦のことを考えると一緒に居てくれるのは願ったりなんだが…。」
春吉は、年齢も近く、悠美によくなついている春彦のことを考えると悠美の申し出は、もろ手を上げたいところだが、あまりにも自分の身勝手さに語尾を濁した
「ご飯のこととか、そんなことはどうでもいいのよ。
 それより悠美さんって、たしか高校3年生でしょ?
 受験じゃないの?」
キクは、心配顔をした。
「はい、高校3年です。
 でも、もう決まっていますので、大丈夫です。
 あとは出席日数に気を付けていれば問題ありません。」
「え?
 決まっているって?
 じゃあ、推薦かなにか?」
「はい。
 舞ちゃんと同じ大学に推薦が決まりました。」
「まあ、じゃあ、春繁も出たあの大学?
 それも、推薦で?」
「はい。」
キクは、あ然とした。
春繁たちの卒業した大学は、レベルが低い方ではなく、当時、推薦で入学するのはかなりの学力がないと難しかった。
それをさらりと言って見せる悠美を見て、キクは納得した。
「でも、ご両親がうんとは言わないでしょう?
 舞さんが退院するまでって、一週間はかかるって言ってたわよ。
 いくら私たちの家でも女の子が、そんなに何日も家を空けるなんて、お父さんやお母さんが心配なさるんじゃないの?」
「はい、でも、修学旅行と思えば何ともないと思います。
 昨年、修学旅行で一週間家を空けましたし、それに今回は春ちゃんと一緒なんで。」
「ええ…。」
キクもいろいろな意味で悠美にいてほしかったが、南雲の両親のことを考えると自分のわがままで引き留めるのもと言いよどんだ。
「じゃあ、父や母が”うん”と言ったら、いいですか?」
「え?
 ああ、ご両親がいいというなら、家(うち)は構わないが…。
 なぁ、お前…。」
「はい、こんな田舎で良ければ…。」
悠美の真剣な眼差しに春吉とキクは首を縦に振るしかなかった。
結局、春吉もキクも悠美がいてくれるという誘惑に勝てなかった。
「じゃあ、ちょっと電話をお借りしますね。」
悠美は、すぐに居間にある電話を借り、自分の家に電話をかけた。
呼び出し音が鳴っている最中、春吉たちは説得が出来たが、両親にはどう説得しようかと受話器を耳に当てている悠美の顔は真剣だった。
「もしもし、悠美ですけど…。
 あっ、おばあちゃん?」
サキの声を聞いて悠美の顔はほころんだ。
サキは悠美のよき理解者であり、厳しいが悠美のことを目に入れても痛くないくらいに可愛がっていた。
また、南雲家は常吉が家長だったが、サキの発言力は強く、サキが「こうしなさい」というと常吉も反論できなかった。
サキも無理難題を押し付けるわけでもなく、ちゃんと正しく納得できることしか言わなかったので、悠美の両親もサキの言うことには従っていた。
それに、サキも外孫だが春彦のことを可愛がっていたので、最初にサキに話せることは悠美にとっては好都合だった。
悠美は電話口で一生懸命状況を説明し、自分の考えを説明していた。
ただ、漏れ聞こえる話の内容から立花の両親に迷惑がかかることが問題になっていて、サキも状況的に悠美の言うことに理解が出来るのだが簡単には承諾できていなかったようだった。
ある程度、話しが終わってから悠美は受話器を耳から外し通話口を掌で覆って、春吉たちの方を見た。
「すみません。
 おばあちゃんがお話ししたいとのことなので、代わっていただけますか?」
済まなそうな顔をして受話器を春吉の方に差し出した。
「うむ…。」
春吉が難しい顔をしながら受話器を受取ろうとしたその矢先、
「あ、あなた、私が代わりますね。
 女は女同士って、ね。」
そう言って、横からキクが受話器を受取り、挨拶もそぞろにサキと話し始めた。
それを聞きながら、春吉は安どのため息をついた。
(よかった。
 儂が代わっても何を話したらいいかわからんかった。)
そう思っている春吉を横目にキクは、サキと親し気に話をしていた。
「いえ、迷惑なんてとんでもないですわ。
 悠美さんからお話を頂いて、うちの方は万々歳なんですよ。
 やはり、こういう状況ですので春彦ちゃんが一番なついている悠美さんが居てくれた方が、こちらとしてもどんなに心強いか。」
「……。」
「はい、こちらとしても、是非お願いしたい次第です。
 それに、悠美さんがいてくれると、家の中も明るくなって。
 今朝も、料理を手伝ってくれたんですよ。
 女の子のいない我が家では、もう、うれしくて。」
電話口のキクの話を聞きながら、少し話が逸れているのではと、春吉は思ったが、声をかけるわけにはいかず横からハラハラしながらキクを見ていた。
受話器の先のサキの声は聞こえなかったが、キクは散々サキと話をし、最期は笑いながら話をしていた。
そして話しが一段落すると、受話器を悠美に戻した。
「サキさんが、悠美さんにお話ししたいって。」
悠美は黙って頷くと受話器を受取り耳にやった。
「おばあちゃん?」
「悠美、だいたい状況は分かったし、立花さんも是非にと言ってくださったので、清志と敏子さんに話をしておくわ。」
「わあ、サキちゃん、ありがとう。」
悠美の顔はパッと明るくなり、家でいつもサキのことを“おばあちゃん”ではなく“サキちゃん”と呼んでいる口癖が出ていた。
「でも、今日は、一度戻ってくるんでしょ?
 着替えとか勉強道具とかないでしょうから。」
「うん。」
「それに、立花さんに何か差し上げないと。
 ご迷惑をおかけするのだから。」
「はい。」
「でも、約束よ。
 勉強を決して疎かにしないこと。
 また、立花さんに決して迷惑を掛けないこと。
 わかった。」
「わかった。
 サキちゃん、大好き!!」
悠美はにこやかな顔で何度も頷き受話器を置いて、春吉とキクの方を向いた。
「無理やりこんなことをお願いして、すみません。
 ご迷惑と思いますが、よろしくお願いします。」
悠美は畳の上で三つ指をついて深深とお辞儀をした。
「そっ、そんな、
 そんなことしないで、顔を上げて。」
「そうだ。
 顔を上げなさい。」
春吉もキクも悠美の丁寧な態度を見て狼狽してしまった。
その時、居間に春彦が入って来た。
春彦は部屋で宿題をやっていたのだが、悠美の来るのが遅かったのと、居間の方が騒がしかったので気になって来たのだった。
「あ、春ちゃん。
 ちょうどよかった。」
悠美が笑顔で春彦に話しかけた。
「え?」
「うん、今日から舞ちゃんが退院するまで、私が春ちゃんと一緒に、ここでお泊りすることになったのよ。」
「え?
 悠美ちゃんが一緒に?」
「そうよ、嬉しい?」
「本当に、一緒に居てくれるの?
 本当に、お母さんが退院するまで一緒に居てくれるの?」
春彦の声は興奮で一段階高い声になっていた。
「うん。
 でも、昼間は学校があるから、学校行っている間は除いてね。
 いいでしょう。」
「…。」
「え?春ちゃん…?!」
キクは、春彦を見ながら春吉の手を引いた。
「あなた…」
「あ、ああ。」
一同の視線の先の春彦は、気を付けの姿勢で両手の拳を握り締め、顔をくしゃくしゃに歪め、その目からは涙が零れ落ちていた。
「春ちゃん。」
悠美が優しく春彦に声をかける。
「お父さんがいなくなって、寂しかったけど、悲しかったけど…。
でも、お父さんの代わりに僕がお母さんを守らないと…。
 そう思ったのに、お母さんまで…。
 ぼくは、ぼくは…」
春彦の我慢は、自分でも気が付かないうちに、すでに限界を超えていた。
悠美は、立ち膝で春彦ににじり寄ると、春彦の両肩に手をやり、そっと、自分の胸に抱き寄せた。
「がんばっていたもんね、春ちゃんは。
 すごく、すごく、がんばったもんね。
 立派だったわよ。」
「悠美ちゃん…。」
悠美にやさしく抱かれ、春彦は、悠美に齧りつくように抱きつくと、わんわんと泣き出した。
「大丈夫、私が春ちゃんについていてあげるから。
 一緒に、舞ちゃんが元気になって退院するのを待ちましょうね。」
そう耳元で囁くと、春彦はしゃくり上げながらも、泣くのを止め、悠美を見上げて頷いた。
「あなた…。」
キクが春吉の方を向く。
「ああ、わかっている。
 我慢していたんだろうな。
 どんなに心細かったか。」
「ええ、そうね。」
「儂たちだけだったら、どうなっていたんだろう。
 春彦は、ああ見えても、我慢強い方だけど…。
悠美さんに感謝だな。」
「ええ。」
春吉とキクの視線の先には、悠美の傍で笑顔になっている春彦の顔があった。

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