FC2ブログ

プロフィール

梅星

Author:梅星
社会人になっても、いつもいろいろな空想の世界を思い描いていました。
その中で、ずっと書きたかったお話(小説)をブログという世界を使って紹介させていただきます。
無理なく肩の力を抜いて続けていきたいと思いますので、楽しんでいただけたらと思います(毎週更新予定です)。
初めて読まれる方は、『あらすじ』も並行して読んでいただければ、読みやすいかと思います。
お楽しみください。

尚、文中の登場人物、会社等すべてフィクションです。


最新記事


最新コメント


月別アーカイブ


カテゴリ


メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:


訪問していただいた方々


よろしくお願いします。


DATE: CATEGORY:第2章 悠美の伝言
その頃、佳奈の家では、佳奈が茂子から悠美の訃報を聞かされていた。
「嘘!」
佳奈は、そう言うと絶句した。
驚きが先で、悠美の死という現実を徐々に認識し始めるとともに、深い悲しみがとめどもなく広がってきた。
「だって、2週間前に逢いに行ったとき、元気だったし、退院したら一緒に……。
 なのに、何で。
 何でなの?
 お母さん?」
茂子も、涙を浮かべ、舞から聞いたことを話しはじめた。
「悠美さん、病気が予想以上に進行が早く、どうにもならなかったんだって。
 なので、佳奈の顔が見たいって、最後に……。」
茂子は、言葉に詰まってしまった。
「悠美さん、本当の病気のことや長くないことは聞かされていなかったそうよ。
 でも、薄々わかってたんじゃないかって。
 じゃなければ、佳奈や春ちゃんに会いたいなんて言わなかったんじゃないかって。」
佳奈は止めどもなく流れる涙をハンカチで拭いながら茂子の話を聞いていた。
「二人に会ったら、満足したんじゃないかって。
 それで、一気に……。」
茂子も話しながら、エプロンの端で涙を拭っていた。
「あんな、素敵な人だったのにね。
 加奈のこと、妹だって言って、すごく可愛がってくれたんだよね。
 本当に優しい娘だったのに。」
佳奈は、ハンカチで顔を覆い、泣きじゃくりながら何度も頷いていた。
佳奈は、声を絞り出すように話はじめた。
「初めて、悠美姉に逢った時、万遍の笑顔で…。
 こんな、優しい笑顔をする人がいるのかって……思った……。
 私のこと、妹みたいだって……、にこにこ笑いながら、妹にしてくれるって……。
 わたし、私、すごく嬉しかったの。
 あんなきれいな人、素敵な人が妹にしてくれるんだって……。
 わたしの、憧れの…」
そこまで話、佳奈は抑えきれず、テーブルに突っ伏し、声を上げて泣きだした。
茂子は、そっと佳奈のそばに行き、佳奈の肩を抱き、頭を撫でた。
佳奈は、しゃくり上げながら、話しを続けた。
「この前、お見舞いに行った時、私の髪をとかしてくれたのよ。
 私の髪、長くてきれいだって。
 私、悠美姉のようになりたくて……。
 せめて、外見だけでもって、悠美姉と同じくらい肩の下まで伸ばしたの。
 悠美姉と一緒に、ポニーテールやツインテや、いろいろな髪形してって……。」
「そうね、あなたも悠美さんも、きれいな真っ直ぐの髪だからね。
 なんでも、似合うわね。」
「そうでしょ、そう思うよね。
 なのに、なんで……。」
佳奈は、そう言うと、また、声を上げて泣き始めた。
しばらくして、佳奈は、少し、落ち着きを取り戻し、急に春彦のことが頭をよぎった。
「悠美姉、凄く元気だったって、春は言っていたのに……。」
そこまで言って、佳奈は今日の春彦の態度が普段と違っていたことの理由が分かった気がした。
「悠美姉、昨晩、亡くなったって。
 春は、いつ聞いたのかしら。」
「きっと、朝じゃない。」
「お母さん、今日、春、変だったのよ。
 じゃあ、きっと……。
 なんで、会ったときに私に教えてくれなかったんだろう。」
茂子は、ちょっと考えてから言った。
「学校で悠美さんのことを聞いたら、きっと、佳奈が悲しみ、今みたいになるから言えなかったんじゃないの?」
「そうかぁ。」
(春も悲しかったんだ。
 だから、あんな冷たい口調になったんだ。)
佳奈は、昼間の春彦の様子が普通じゃなかったことを納得した。
「でも、春彦君も、もっともっと悲しいはずなのに、強いね。」
「うん。」
佳奈は、頷くだけだった。
「少し、落ち着いた?」
茂子の問いかけに、思いっきり泣いた分、少し落ち着いて来た気がして、佳奈はうなずいた。
「明日、お通夜で、明後日、告別式だって。
 私は、佳奈がお世話になったから、両方行ってくるけど、佳奈はどっちかでいいからね。
 お通夜に行く?」
佳奈は、顔を横に振り言った。
「私も、両方行く。」
「わかったけど、参列する人はみんな悲しいんだからね。
 特に悠美さんのご両親やご兄弟は特に悲しいんだから、今みたいに、取り乱したりしたらだめよ。」
佳奈は、小さくうなずいた。

翌日、悠美のお通夜は、厳かに営なわれた。
佳奈と茂子は焼香の一般客として、列に並んでいた。
昨日、茂子にしっかりするように言われていた佳奈は、それでも、目を赤くし、ハンカチで鼻を押さえながらも、泣くのを一生懸命こらえていた。
徐々に列が進み祭壇に近付いてきたころ、佳奈は、親族の席にいるだろう春彦の姿を探した。
春彦と舞は親族の席の後ろの方に並んで座っていた。
春彦は、無表情な顔でじっと前を向いていた。
舞も、同じだった。
佳奈たちの焼香の晩が来て、二人は並んで祭壇の前に立った。
正面には、にこやかにほほ笑む悠美の写真が飾られていた。
写真の悠美は、病気にかかる前で、まだ、ふくよかな顔をしていて、少しすましたような顔で笑っていた。
(悠美姉…)
佳奈は、とめどもなく流れてくる涙を止めることができず、ハンカチで涙を押さえていた。
茂子が、そんな佳奈の様子を察し、そっと佳奈の手を取り、お焼香をするように促した。
佳奈は、頷き、お焼香を済ませた。
それを見届け、茂子は佳奈の腰に手を回し、そっと出口の方に誘導していった。
「お母さん、ごめんなさい。
 悠美姉の写真を見たら、涙が止まらなくなっちゃって。」
斎場を出て、佳奈は茂子に謝った。
「いいのよ、頑張ったもんね。
 悠美さんの写真、きれいだったね。」
その茂子のセリフに、佳奈はハンカチで鼻を押さえながら頷いた。
(春は、大丈夫なのかしら)
佳奈は、青白い顔をして無表情で坐っていた春彦の姿を思い出していた。
その夜、佳奈はなかなか寝付けなかった。
悠美との楽しかった思い出を思い出すたびに、涙がこぼれて仕方がなかった。
最期には、泣き疲れ、眠りに落ちていった。

翌日、悠美の告別式は午前中に営まれた。
その日は朝から天気は良かったが、風の強い日だった。
佳奈と茂子は、通夜の時と同様に、お焼香をすませ、出棺を見送るために待っていた。
告別式が終わり、親族による最後のお別れが行われていた時、待機していた二人のところに春彦が現れた。
「母さんが、お二人にもいらしてほしいと言ってますので、ついてきてくれますか。」
佳奈と茂子は、お互いの顔を見合わせ、一瞬ためらったが、すぐに春彦に続いた。
その先に、親族が一人ずつ生花を持って、悠美が横たわっている棺を取り囲んで、一人ずつ棺の中の悠美にお別れをしているのが目に入った。
「こっちです。」
春彦は二人に生花を渡し、順番の列に手招きした。
悠美の棺の傍らで、寄り添うように、悠美の母親の敏子座って、何やら悠美に話しかけていた。
父親の清志や光一もそのそばで、敏子を支えるようにそばにいた。
佳奈は、良く悠美の家に遊びに行っていたので、光一だけではなく、敏子や清志とも、親しかった。
「佳奈ちゃん、こっちに来て。」
敏子は、佳奈に気が付き、そばに来るように手招きしていた。
佳奈と茂子が呼ばれるままに近付いていくと、敏子が悠美に話しかけていた。
「悠美、佳奈ちゃんが来てくれたわよ。
 あなたが、妹だって、可愛がっていた佳奈ちゃんが来てくれたわよ。」
ほとんどの親族は、悠美から春彦と佳奈のことを弟、妹みたいに可愛がっていることを聞かされていた。
なので、佳奈が戸惑っていると、道を開け、参列者の誰かがそっと佳奈の背中を押して悠美の横たわっている棺の方に導いた。
佳奈は、棺の中の悠美に対面した。
「佳奈ちゃん、見て。
 悠美、きれいでしょ。
 佳奈ちゃんが来てくれたから、喜んでいるわ。」
敏子は、悠美の髪を撫でながら佳奈に話しかけていた。
佳奈は、悠美の顔を見つめた。
悠美は、薄ら薄化粧しており、そのためか薄ら頬に紅が差しているよう、まるで、寝ているかのような安らかな顔をしていた。
「悠美姉…。」
まるで今にも目を開けて「佳奈ちゃん」といつものように名前を呼んでくれるのではないかと思うほど穏やかな死顔を見て佳奈は絶句した。

あれは、初めて佳奈と悠美が出会った日。
佳奈が幼稚園に上がる前、その当時は、よく休日になると、茂子と舞が佳奈と春彦を連れて公園に遊びに行っていた。
その時、小学生だった悠美は休日を利用して春彦と遊ぶため、舞の家に来ていて、舞が春彦を連れて公園に行くということで悠美も一緒についてきた。
最初のうち、佳奈は悠美に人見知りしていた。
突然、悠美の方から佳奈ににっこり微笑みながら話しかけた。
「佳奈ちゃんて言うんだ。
 私は、悠美っていうんだよ。
 春ちゃんのお姉さんなの。
 よろしくね。」
優しい人懐っこい悠美の笑顔を見て、佳奈はすぐに警戒を解いた。
「ゆ…み…ねえちゃん?」
佳奈は、悠美の名前と春彦のお姉ちゃんだといった悠美のセリフかが、ごっちゃになって、思わずそう切り出した。
「そうよ、悠美お姉ちゃんっていうんだよ。
 よろしくね。」
悠美は、春彦と佳奈と一緒にブランコ遊びや、砂場遊びをして楽しんでいた。
「悠美さんて、すごく感じの良い娘ね。
 子供たちの面倒もよく見てくれるし、佳奈もすっかりなついているわ。」
茂子は、感心しながら言った。
「まあ、自慢の姪っこだから。」
と舞も笑いながら砂場遊びをしている3人の方に顔を向けた。
「ん?」
舞の目に、悠美がニコニコしながら、宝物でも見つけたような目で、じっと佳奈を見つめている姿が映った。
「あちゃー、茂子、ごめん。」
「え?
 何?」
「ううん、すぐわかる。
 ほら。」
顔を向けた先に、佳奈を抱き上げ、こちらに向かってくる悠美が見えた。
悠美は、佳奈を抱き上げ、春彦を従えて、興奮とまんべんの笑顔で二人に近付き、茂子に向かって明るい声で、言った。
「茂子さん、佳奈ちゃんを私の妹にしていい?」
「え?佳奈を?」
横で、舞がゲラゲラ笑いだした。
「この子はね、下の兄弟がいないから、気に入った子を見つけると、弟や妹にしたがるの。
だから、春もこの娘の弟にされちゃったんだ。」
舞の話を聞いて、茂子は納得した。
そして、笑顔で悠美に話しかけた。
「いいわよ。
 その代り、可愛がってね。」
「はいっ!」
悠美は、はじける笑顔で返事をして、抱き上げている佳奈にほおずりしながら言った。
「佳奈ちゃん、ゲッチュー!
 今日から、私の妹だからね。
 よろしくね。」
佳奈は、何の事だか理解できなかったが、ほおずりしている悠美の柔らかさ、優しい香り、何よりも嬉しそうに自分に話しかけてくれることで、思わず嬉しくなり返事をした。
「うん、佳奈、悠美姉ちゃんの妹になる。」
それを聞いて舞は、さらに大笑いして茂子に言った。
「ほーら、佳奈ちゃん取られちゃったよ。」
「そうみたい。」
その場の全員が楽しそうに笑っていた。

「佳奈ちゃんは、私の妹だからね。」

佳奈は、悠美が目を開けて、また、いつもの優しい笑顔で、そう言ってくれるのではと思った。
そして、我慢していた涙が止めどもなく頬に流れ、体の力が抜けていく気がした。
その時、いつの間にか、そばにいた春彦が佳奈の肩を抱き支えた。
「は…る…?!」
佳奈は、春彦の力強い腕に支えられ、少し、体に力が入る気がした。
「あら、春ちゃんも。
 悠美、春ちゃんと佳奈ちゃんが揃ってきたわよ。
 あなたの可愛がっていた弟と妹よ。
 わかる?
 そうよ、よかったわね。」
敏子は、春彦と佳奈を見て、また、悠美に話しかけた。
(あら、悠美が笑ってる。)
その光景を見ていた舞は、思わず心の中で呟いた。
「ほら、悠美ちゃん待っているから。
 一緒に花で飾ってあげよう。」
春彦が佳奈に優しく言った。
「うん。」
佳奈は、春彦に促され、二人で持っていた生花を悠美の枕元にそっと置いた。
佳奈は、もう一度棺を見渡した。
そして悠美の傍らに佳奈が持って行ったパズルの本と春彦が持って行った漫画の本が一緒に置かれているのを目にした。
「それね、結局悠美は読めなかったから、持たせようと思って。」
光一が、佳奈の視線の先の本に気が付いて説明した。
「うん。」
佳奈は、小さく頷いた。
「さあ、佳奈。」
春彦は、次の人に場所を譲るよう、佳奈の名前を呼び、肩に回している腕に力を籠め、佳奈を立ち上がらせた。
佳奈は、春彦に言われるとおり立ち上がり、最後にもう一度、悠美の顔を見た。
悠美は、優しく佳奈に「バイバイ」しているようだった。
「悠美姉、またね。」
佳奈は小さな声でお別れを言って春彦と、その場を後にした。
「春…。
 ありがとう。」
佳奈はささやくように言った。
春彦は無言のままだったが、小さく頷くのが感じられた。
二人は、舞と茂子が立っているところに戻った。
春彦は、佳奈を支えていた腕をほどき、佳奈をそっと茂子の方に押しやった。
佳奈は、さっき、悠美の棺の方に押しやってくれたのが、春彦だと思った。
「春ちゃん、ごめんね。
 迷惑かけて。」
茂子は春彦にすまなそうに謝った。
春彦は、何も言わずに顔を横に振った。
「じゃあ、舞。
 私達は、外でお見送りするから。」
「うん、今日は来てくれてありがとう。
 佳奈ちゃんも、ありがとうね。」
「いいえ、とんでもない…。」
佳奈が丁重に答えた。
佳奈と茂子が部屋から出ていくのを見届けた後、突然、春彦が言った。
「母さん、火葬場に行きたくない。
 俺も、ここで見送って、でいいかな…。」
「え?」
一瞬、舞は考えたが、納得したように言った。
「いいわよ。
 一人で帰れるわね。
 皆には、私の方で言っておくから。」
「うん、ごめんね。」
「ばか。」
春彦は、そこで舞と別れ、佳奈たちの出ていったほうに歩いて行った。
「皆様、そろそろ出棺の時間です。
 まだ、ご挨拶がすんでいない方は、急いでください。」
葬儀の進行役が厳かにアナウンスした。
最後の対面が済んで、出棺の準備が始まった。
そして、棺に蓋がされたとき、敏子の絶叫が外の参列者まで聞こえた。
「いやー、いやよ、悠美。
 目を開けなさい。
 うわー。」
棺の蓋を閉める時に、敏子の感情が爆発し、棺に抱きつき大声で叫んでいた。
参列者は、居てもたってもいられず、皆、下を向いていた。
力なく棺にしがみついている敏子を、清志と光一が両方から抱きかかえるように支え起こした。
コーン、コーンと棺にくぎを打つ音が妙に響いた。
棺が、大勢の大人に担がれ、霊柩車に入れられた。
親族の挨拶では、清志が言葉に詰まりながら、涙声で参列者にお礼の言葉を言っていた。
その傍らには、悠美の写真を胸に光一に抱えられるように立っている敏子が立っていた。
そして、清志、敏子は霊柩車に、光一と火葬場まで行く親族たちはマイクロバスに分乗した。
最後に、式の進行役が霊柩車の火葬場への出発を告げ、霊柩車は、クラクションを鳴らし徐々に動き始めた。
春彦は、じっと霊柩車の去っていく方向を見つめていた。
「春君、途中まで一緒に帰らない?」
ふと声を掛けられ、振り向くと、そこには茂子と目を真っ赤にはらした佳奈が立っていた。
茂子は、最後の対面の時、春彦と佳奈を待ちながら、舞と話をしていたことを思い出していた。
「春君、しっかりしてるね。」
「ううん、違うの。
 たぶん、もう限界なのよ。
 早く一人にしてやらないと…。」
「え?」
どういう意味なのか聞き直す前に二人が戻ってきたので聞きそびれたが、茂子には、その意味が分からなかった。
「はい」
春彦のしっかりした返事を聞いて(やっぱり、しっかりしてるわよ)と思った。
「春、大丈夫?」
「え?」
佳奈が、春彦のことを気遣って声をかけたのに茂子ははっとした。
春彦は、佳奈の方を向いて頷くだけだった。
春彦と佳奈は並んで、しかし、無言で歩いていた。
茂子は、後ろから付き添って歩いていた。
(無理もないわよね、二人にとって悠美さんは特別だったからね)
ただ、佳奈がしきりに気にして春彦の方をちょくちょく見ているが気になった。
(佳奈も、悠美さんのことで悲しみいっぱいのはずなのに)と、訝しんだ。
佳奈は、やはり、口にハンカチを当て少し泣きじゃくりながら歩いていたが、それでも、たまに春彦の方を見ていた。
春彦は佳奈たちと佳奈の家の近くで別れた。
「じゃあ、春君、気を付けて帰ってね。」
「はい、どうもすみません。
 じゃあ、失礼します。」
春彦は、丁寧に茂子に挨拶をして、自分の家の方角に向かって歩き始めた。
佳奈は、急に春彦の方に駆け寄り、春彦の手を握った。
「春、本当に大丈夫。」
佳奈は、春彦の顔を覗き込んで聞いた。
「大丈夫だよ。
 じゃあね。」
春彦は、作り笑いをしながら、佳奈の握っている手をぽんと叩き言った。
そして、手をそっと振りほどき、手を振って、また歩き始めた。
その後ろ姿を見送りながら、茂子は心配になって佳奈に尋ねた。
「ねえ、春君、どうかしたの?」
「えっ?
 ううん。
 何か思いつめているみたいで気になって。」
「えっ?」
茂子は、佳奈の方が春彦のことを、よく、わかっていると思った。
「もし、春まで、何かあったらどうしよう。」
佳奈は不安気にいった。
茂子も舞の言った(「もう限界なのよ」)という言葉を思い出し、不安に駆られた。
そして、不安を払いのけるように言った。
「大丈夫よ。
 春君は、大丈夫よ。」

春彦は、まっすぐ家に帰った。
ドアを開け、「ただいま」と誰もいない家の中に向かって言った。
そして、自分の部屋に行き、窓を開け、新鮮な空気を入れた。
午後の陽だまりの中、暖かい柔らかな風が部屋に入ってくるのを感じた。
(疲れたな。)
春彦は、ベッドに倒れこむように、うつ伏せで横になった。
しばらく身じろぎもせず、窓からカーテンを揺らし入ってくる風を感じていた。
少し、うとうとすると、悠美がベッドに腰掛け、春彦の髪を撫でていた。
正確にいうと、部屋に入ってくる優しい風が、春彦の髪を揺らしていたのだが、春彦には悠美にやさしく撫でられている気がして、身近に悠美の気配を感じていた。
そして、悠美のやさしい声が聞こえた気がした。
「春ちゃん、悲しいね。
 私も悲しいわ。
 悲しい時は、我慢しないで泣いちゃおう。
 そうすれば、きっと明日は元気になるから。」
春彦は、嗚咽を漏らしながら、泣き出した。

「ただいま。」
夕方、舞が帰ってきた。
「おかえり。」
春彦が部屋から出てきて、舞に言った。
舞は、泣きはらした春彦の顔を見て、少し、ほっとした。
その夜、舞は一人でお酒を飲みながら、茂子にお礼の電話をかけていた。
茂子は、佳奈が落ち着いたことと、春彦のことを心配していた。
「春君、大丈夫?
 佳奈もすごく心配してたわ。
 私より、春君のことが、わかるみたい。」
「まあ、二人とも悠美の弟と妹だから、お互いが分かるんじゃない。」
「そんなものかな。」
茂子は少し納得した。
「春君、限界って言ったけど、どういう意味?」
「うーん、何て言うのかな。
 私もよくわからないけど、悠美に言われたの。
 あれが亡くなった時も、今回みたいに、春は泣かずに普通にしてたの。
 その時は、私は、小さいながらにしっかりしてるなと、思っていたの。
 それに、春だけ見ている余裕がなく、おとなしくしっかりしていたので助かってたのよ。
 そうしたら、悠美が来て、春彦の顔を見た瞬間に、真っ青な顔で言ったの。
 『舞ちゃん、春君がたいへん。
  春君、壊れちゃう』って。
 そして、春を借りるって言って、どこかに連れてったの。
 しばらくして戻ってきたら、春の顔ったら、泣きはらした顔をして、口をぎゅってつむんで泣くのを我慢していたの。
 どうやら、その時の春は、あまりの悲しさに心がおかしくなっていたみたい。
 悠美が、それに気づいて、魔法を掛けくれたみたいなの。
 それから、告別式が終わるまで傍についていてくれたの。」
「そうなんだ、そんなことがあったんだ。
 で、今日は?
 春君大丈夫なの?」
「うん、人前では決して泣かない子だから、一人にしたら、目を腫らしていたわ。
 だから、大丈夫だと思う。
 帰って来た時、普通に戻っていたから。」
「そう。
 ならばよかった。
 舞、無理かもしれないけど、あまり気を落とさないでね。
 いつでも、話し位なら聞けるからね。
 それと、身体に悪いから、飲み過ぎちゃだめよ。」
「うん。
 ありがとう、茂子。」
舞は、茂子との電話を切った後、立ち上がりキッチンに新しいお酒を取りに行った。
「今日くらい、潰れるほど飲んでもいいよね。
 明日は、仕事、休んじゃおう。」
そう言うと、コップに日本酒を注ぎ、一気に飲み干した。
しばらくして、酔いがまわってきたのか、傍にまるで悠美がいるかのように独り言を言い始めた。
「悠美、あんたって、最期まで小さくて……。」
(何言ってるの、舞ちゃんとあんまり変わらなかったじゃない。)
「笑うと、目がなくなるみたいな、ちんちくりんな顔をして。」
(えー、悪かったわね。)
「でも、その笑顔が、とっても可愛かったわよ。」
(ありがと。)
「すました顔の時は、誰に似たんだろう。
 知ってた?
 ずいぶん美人さんだったのよ。」
(あら、舞ちゃんより?)
「なのに、何で先にいっちゃったの?
 寂しいじゃない……。」
(……ごめん……。)
舞は、こらえきれず嗚咽を漏らして泣き始めた。
リビングのドアの外では、春彦が立って、様子を窺っていた。
春彦も、喉が渇いたのでキッチンに行こうとしたが、舞の声が聞え、遠慮していたのだった。
(母さん、あまり飲み過ぎないようにね。)
春彦はリビングを横切ってキッチンに行くことを諦め、部屋に戻っていった。
舞は、ひとしきりさめざめと泣いた後、宙を見上げて、ぼそっと独り言を言った。
「悠美、春彦のこと、ありがとうね。
 でも、あの時と違うのは、あなたがいないということ。」
舞は何かが胸に引っかかっている気がした。
そう、春彦の心のピースが1つ欠落していたことを知るよしもなかったが、漠然とした不安が心をよぎっていた。
スポンサーサイト
DATE: CATEGORY:第2章 悠美の伝言
病院を出たところで不意に、舞が春彦に話しかけた。
「そうだ、春。
 そこで野球やってるんだよ。
 デーゲームで進撃の巨人の試合。
 ねぇ、見ていこうよ。」
病院から野球場までは歩いて行ける距離で、練習をしているのか、ボールを打っている音、観客のざわつく声が、その方向から聞こえてきた。
「いいけど、チケットあるの?」
「大丈夫、大丈夫。
 こんな地方球場だもん、当日券があるわよ。」
「母さん、野球も好きだからなぁ。」
春彦は急な話ですこし面食らったが、天気がいいのと、悠美の笑顔が見れたので、二つ返事で野球を見に行くことにした。
二人は、野球場に入りベンチに腰掛けた。
「ね、自由席だけど内野だよ、内野席!
 選手の顔もばっちり見えるよ。」
春彦は、なぜかハイになっている舞を少し呆れていた。
「あっ、おねーさん、こっちこっち!
ビール2つね。」
「おいおい、俺、未成年の中坊だって。」
春彦は焦って言った。
「いいの、2つとも私が飲むんだから。
 1つ飲み終わるまで、もう一つは、春が持っていてね。
 泡位なら、飲んでいいから。
 あっ、おねーさん、あと、ポップコーンもひとつね!」
半ば強制的に春彦はビールとポップコーンを持たされていた。
試合が始まり、舞のボルテージは更に上がっていた。
「きゃあ、今日はエースの城が投げるのよ。
 春、あの投げ方は独特だから、よく見ておきなさい。
 ジョー、頑張れー。」
舞は、絶叫しながら応援を始めた
(やれやれ、でも、本当だ。
あのピッチャー、柔道の背負い投げのような投げ方しているな)
春彦は、舞にあきれながら、冷静に試合を観戦していた。
明るい日差しと、病室で悠美に抱きつかれた昂奮とで喉が渇いていた春彦は、ビールの泡を少し飲んでみた。
「にがっ!」
春彦は思わず口に出した。
ふと舞の方を見ると、舞は、春彦のそのしぐさを見てケラケラと笑っていた。

翌日、春彦はいつものように学校の昼休み、弁当を食べ終わり、友達とふざけていると、佳奈が教室に入ってきて、きょろきょろと春彦を捜していた。
そして春彦を見つけると近寄り声を掛けた。
「あっ、春。
 今日、部活ないんでしょ。
 一緒に帰ろー。」
「いいよ。」
「じゃあ、放課後、いつものところでね。」
佳奈はそれだけ言うと、そそくさと一緒にいる友達と教室を出ていった。
「もう、お前たちは、からかうのも疲れるわ。」
春彦の友人が呆れ気味に言った。
最初のうち、春彦と佳奈の関係をからかう生徒は多かったが、付き合っている仲ではなく幼馴染であることと、二人があっけらかんとしていることから、だんだんと何も言われなくなっていた。
「だから、違うってーの。」
春彦は、笑いながら答えた。
放課後、いつものところ、正門近くの銀杏の木のところで、佳奈は先に来て春彦を待っていた。
春彦は、佳奈が先生や知っている友達に笑顔で挨拶している姿を見て、何となく可笑しくなった。
「遅いよ。」
「そっか、ごめん。」
佳奈は笑顔で言った。
「じゃあ、中屋で鯛焼きおごってね。」
「まじか?」
佳奈は無邪気に頷いた。
「やれやれ。」
春彦は、お小遣いがいくら残っているか、頭の中で計算していた。
「まあ、いいか。
じゃあ、行こう。」
「やったー!
 ところで、さっき、私の顔見ながらニヤニヤしていなかった?」
「そうかぁ。」
春彦は明るい笑顔の佳奈を見るのが好きだった。
佳奈の笑顔ををみると、春彦はつられて楽しくなるのだった。。
中屋という食堂の軒先で売っている鯛焼きを買って、いつものように、近くの公園のベンチに二人並んで腰を下ろし、買ってきた鯛焼きを頬張りはじめた。
一口食べてから、佳奈から口を開いた。
「昨日、悠美姉のお見舞いに行ったんでしょ?
 悠美姉、どうだった?
 元気だった?」
「ああ、思った以上に元気だったよ。
 いつものように抱きつかれたし。」
「あっ、私もこの前行ったとき抱きつかれた。
 悠美姉に抱きしめられると、何か幸せな気分になるんだよね」
「うん。」
春彦は、昨日、帰りがけに悠美に正面から抱きつかれたことを思い出し、照れ臭くなっていた。
そんな晴彦の感じを察したのか、佳奈がからかった。
「あれー?
 春、赤くなってるよ?
 さては、悠美姉に惚れたか!」
「バカ言うな。」
春彦は、苦笑いしながら、佳奈の頭を叩くふりをした。
その拍子に、春彦は手に持っていた鯛焼きを落としてしまった。
「なに、どじってるの。
 もう、はい。」
佳奈は笑いながら、自分の鯛焼きを手で半分に割って、口をつけていないほうを春に差し出した。
「おお、サンキュー。」
春彦は、遠慮なく受け取って口に頬張った。
春彦と佳奈の間には遠慮というものがなく、それでいて、二人とも相手を思いやる心が強かった。
これは、いつも悠美に言われていたことで、いつの間にか、当たり前になっていたことだった。
「で、どうだった。
この前、痛いって言っていた脚、良くなってた?」
「ああ、それは大丈夫みたいだよ。」
「よかったぁ。」
春彦は、悠美から足のことは佳奈に内緒と言われていたことを思い出し、何でもなかったように答えた。
(まあ、内緒だと言われなくても、言わないけど)
春彦は、少し前から悠美の足のことは知っていたが、決して誰にも言わなかった。
知っているはずの舞の前でも、話題にも出さなかった。
「で、いつ退院できるって言ってた?」
「うーん、詳しく言ってなかったけど、退院したらどこに行きたいの、何がしたいので、はしゃいでいたから、結構早いんじゃないの。」
「もう、ちゃんと聞いてくるっていったじゃないの。
 でも、その感じだったら、結構早いかもね。
 早く悠美姉帰ってこないかな。」
「そうだね。」
二人は、夕やけ空を見ながら、悠美の退院を待ち望んでいた。
そして。


その週の金曜日の朝、春彦はいつものように起きて、リビングに朝食を食べに入ってきた。
いつものように、舞は、朝食の用意を整えていた。
「おはよう、母さん。」
「おはよう。
 ご飯の用意できてるからね。」
「うん。」
春彦は、舞の様子がいつもと違う気がした。
何が違うか考えながら席に着いた。
「じゃあ、いただきます。」
いつもなら、軽口ひとつ言いう舞だが、今日に限り、頷くだけで何も言わなかった。
春彦は、そんな舞のことが気になりながらも、朝食を取り始めた。
そして、食べ終わったころ、おもむろに、舞が口を開いた。
「春彦。」
「うん?」
「悠美ちゃん、昨日死んじゃった。」
「え?」
春彦は、一瞬、何のことだかわからなかった。
が、徐々に状況が飲み込めてくると同時に、恐ろしく冷淡に受け止める自分を感じた。
「そう。」
春彦は、一言だけ答え、食器を下げ、学校に行く支度をしていた。
「帰ってきたら、これからのこととか、詳しく話すからね。」
舞は、そんな春彦を見つめながら、感情を押し殺したように言った。
「うん。」
春彦は、身支度を整えて、玄関に行き、靴を履いた。
少し心配げに舞は尋ねた。
「春、大丈夫ね?」
「うん。じゃあ、行ってきます。」
「いってらっしゃい。」
玄関を出ると、雲一つない青空で、朝日が目に眩しかった。
春彦は、無意識に全力で悠美に事を考えることを拒否していた。
ただ、心にぽっかりと大きな穴が開いたような、虚無感を感じていた。
どこをどうやって学校についたのか、いつも通りの通学路で登校したのだが、学校までに道のりに一切記憶がなく、他の学生の笑い声で我に返り、学校についたことを知った。
「おーい、立花!」
友人の中村が声をかけてきた。
「おう、おはよう。」
春彦は、その友人の方に顔を向け、返事を返した。
「おはよう。
 今日はいい天気だね…。」
友人は、あいさつもそこそこに、早速、昨晩のテレビのことや、最近はまっているゲームのことを話しはじめた。
春彦は、いつもであればすぐ話に入っていくのだが、今日は、その話に生返事をしながら、実際に声は聞こえていたが、話の内容はうわの空になっていた。
教室に入り、席に着くと、そばの席の同級生も話に加わり、いつものような風景になっていたが、春彦は、一歩離れて、友人たちを見ている自分を感じていた。
授業が始まり、昼休みにいつものように、舞の手作りの弁当を食べ、午後の授業を受けと、いつもの日常だが、今日の春彦には喜怒哀楽が欠落していた。
というか、欠落している自分を感じていた。
ただ、友人達は、春彦のことを、いつもより少しおとなしいなとしか思っていなかった。
「春、春ってば。」
放課後、下校の時間になり、教室から出た春彦は、自分の名前を呼ばれているのに気が付いた。
声の主は佳奈だった。
「何、ぼーっとしているの?
 何回も呼んだのよ。
 どうかしたの?」
「ん?
 いや、どうしも。」
春彦は、無表情で答えた。
佳奈は、少し怪訝な顔をして春彦の顔を覗き込んだ。
「お昼休みに、一緒に帰ろうっていったじゃないの。
 なのにスタスタ行っちゃうし。
 なんか変よ。」
「そっか、悪い悪い、ちょっと考え事していた。」
「何考えてたの?
ひょっとして、何かよからぬこと?」
佳奈は気を取り直して、いつものように軽口を言った。
「いや。
 そうだ、佳奈。
 今日は悪いけど一人で帰るわ。」
少し冷たい言い方の春彦のセリフに、佳奈はびっくりした。
「えっ?
 何?
 どういうこと?」
「だから、今日は一人で帰るって言ったんだ。」
春彦は、佳奈に向かってきつい口調で言った。
春彦から、そういうことを言われたことがなく、また、喧嘩をしている時位、いや、喧嘩をしている時と違って、きつく冷淡な言葉を聞き、佳奈はその場に立ち尽くした。
「ごめん。」
春彦はそう言うと、立ち尽くしている佳奈をその場に残し、一人でその場を後にした。
「何よ。
 何なのよ。」
最初は、腹を立てていた佳奈だったが、だんだんと春彦のことが心配になっていた。
(どうしたんだろう。
 何かあったのかなぁ。
 月曜日に、何かあったのか聞いてみよう。)
佳奈は、何か釈然としない気分で、家路についた。

春彦は、まっすぐ家に帰る気がしなくて、しばらく、いろいろと遠回りしながら道草をくっていた。
そして、夕方になり、日が傾き始めたころに自宅に戻ってきた。
「ただいま。」
春彦は、玄関のドアを開け自宅に入った。
居間に行くと、舞がリビングでビールを飲んでいた。
「おかえり。
 遅かったね。
 でも、私もさっき悠美のところから帰ってきたのよ。」
舞は、病院から無言で自宅に戻った悠美の弔問に、また、葬儀に向けてのいろいろな段取りの手伝いに行っていた。
「そうなんだ。」
「だから、夕飯は、今市のお弁当。
名前の通り、いまいちなんだけど、まあ、勘弁してね。」
「ああ、おれ、今市の弁当、結構好きだよ。」
「そう、よかった。
 じゃあ、着替えてきて、食べなさい。」
「ああ」
春彦は部屋に戻り着替えをして、洗面所で顔を洗いリビングに戻ってきた。
舞は、ビールではなく、日本酒に切り替えていた。
「そんなに飲んで、大丈夫なの?」
「ん?
大丈夫よ。
 春も、一緒に飲む?」
「まさか。」
春彦は、椅子に坐り、テーブルに置いてあるペットボトルのお茶を開けて、一口飲んだ。
「どっちの弁当食べていいの?」
テーブルには、形の異なるお弁当が二つおいてあった。
「どっちでも。
 私は食欲ないから、両方食べていいよ。」
「そう。」
春彦は手前にある弁当を取った。
弁当の包みには「とんかつ弁当」と書いてあった。
「じゃあ、食べるね。」
「うん。」
春彦はもくもくと弁当を食べ始めた。
春舞は、コップのお酒をゆっくり一口ずつ、何か考えをまとめているように、時間を掛けて飲んでいた。
彦の食事が一段落したところで、舞は、ゆっくりと悠美のことを話しはじめた。
「悠美ね、私達が帰った後、まるで風船の空気が抜けていくように、元気がなくなり、疲れたから休むと光一に行ってベッドに横た わったんだって。
 そのあと、数日間、痛みにうなされながらも昏々と眠り続けてたの。
 昨日ね、光ちゃんから悠美の容態が悪いから、今のうちに会いに来ないかって。
 そして、見舞に行って、寝ている悠美の手を握ったら、その時だけ、目を開け、何言うわけでもなく、また、目を閉じたの。
 少し、様態が安定したからって、家に帰ったんだけど、夜遅く急に容態が…。
 そしてすぐに息を引き取ったんだって。
 最後の時、苦しそうな悠美を見て両親、光一は居てもたってもいられず、何とかならないのかとお医者さんに聞いたんだって。
 お医者さんは、もう意識もなく、本人は痛みも感じていないはずとだからといったそうよ。
 今日、悠美の顔を見てきたけど、苦しい闘病だったけど、それを感じさせないほど穏やかな顔をしていたわ。
 あんな…。」
舞は、言葉に詰まった。
春彦は何も口を挟まず、じっと舞の言葉を聞いていた。
舞は、自分の心を整理する様に少し間を置き、再び、話しはじめた。
「明日が、お通夜で、明後日がお葬式。
 土日で、土曜日は祭日にぶつかっているから、学校は大丈夫よね。」
「うん。」
春彦は、静かに頷きながら返事をした。
「茂子には、さっき電話したから、佳奈ちゃん、今頃聞いているんじゃないかな。」
「そっかぁ。」
(加奈のことだから、ひどく悲しむだろうな)
春彦はぼんやり考えていた。
「白のワイシャツ、アイロン掛けておくから。
 あと、御数珠は、お父さんのを忘れずに持っていきなさい。」
「ああ。」
春彦は、返事して立ち上がった。
「どこ行くの?」
舞は思わず尋ねた。
「うん、今日は疲れたから、部屋でごろごろしてる。」
「わかった。
 でも、お風呂にちゃんと入って寝なさいよ。」
「うん」
舞は、春彦の背中を見送り、お酒を一口飲み込んだ。
そして、一つため息をついて、独り言を言った。
「悠美。
 昨日、あなたの手を握って、『悠美まで、私を置いて行かないで』って心で言ったの聞こえたのかしら。
 だから、目を開けてくれたの?
 何か言おうとしてくれたの?
 でも、寂しいわ……。」
いつしか舞の頬に涙が流れていた。
春彦は自分の部屋に戻り、ベッドにうつ伏せで倒れこんだ。
(なんか、体が重いなぁ)
そんなことを考えながら、だんだん、眠りに落ちていった。
DATE: CATEGORY:第2章 悠美の伝言
次の日、佳奈は春彦と学校帰りに一緒に歩きながら、昨日悠美を見舞ったときのことを報告していた。
「だから、あと1~2か月で、退院なんだって。」
「でも、1~2か月って、アバウト過ぎない?」
「えっ、言われてみればそうかも…。
 でも、何の病気かも聞いていないし、悠美姉、ベッドから降りる時に、ねん挫したって言ってたし。
 春は、何か聞いている?」
「俺も、詳しくは聞いていないんだ。
 この前、入院する前に逢った時は、やっぱり、脚にギブスしていたし…。
 ねん挫のひどいのって言ってた。」
「えっ?じゃあ、そのひどいところを、また、ぐきってやっちゃたのかなぁ。」
佳奈は自分が痛いという顔をして見せた。
「でも、いくらひどいねん挫って言っても1か月も2か月も入院しないよね。」
佳奈は、また、もやもやした不安が心の中に湧き上がってくるのを感じた。
「いいよ、今度の休みに、母さんと悠美ちゃんのお見舞いに行くから、その時、もう少し、ちゃんと聞いてみるから。」
「うん、お願いね。
 でも、舞さんの方が病気のこと知ってるんじゃない?」
「うーん、どうだか。
 この前聞いたら、難しい名前でよくわからないって言ってた。」
「ねん挫で難しい名前?」
「よくあるじゃん、脛骨第3番なんちゃらかんちゃらとか、漢字ばっか並べて、かんたんに言えば首を寝違えただけとか。
 そんな名前みたいだよ。」
「なにその、なんちゃらかんちゃらって。」
佳奈は笑い出した。
春彦も、笑ったが、内心は、これ以上病気のことを深堀したくないというのが本音だった。
なので、話をそらそうと今日の授業のことに話を向けた。
「そうだ、今日、また、あの地理の先生、バカやったんだって?」
「そうそう、あのムキムキマッチョマン、変なことやったのよ。
 何やったと思う?」
「この前は、いきなりスプーンを投げて『君たちには、もう、さじ投げた』だっけ。」
「今日は、へんな茄のような帽子をかぶってきて『君たちは、腐ったトマトだ』って言ったのよ。
 みんな、何のことかあきれ返っちゃった。
 春、その意味、わかる?」
「そんなの、わかるわけないだろう!
 あの先生と一緒にしないでくれー。」
春彦と佳奈は、大笑いした。
佳奈は、春彦と大笑いしたせいで胸の中で渦巻いていた悠美への“もやもや”した気持ちを忘れていた。

次の日曜日、舞と春彦は悠美の見舞いのため、家を出ようとしていた。
「さあ、春、行くよ。」
「はいはい、今行くから、ちょっと待って。」
春彦は、がさがさと紙袋を持って玄関にやってきた。
「何持ってるの?」
舞は、袋の中を覗き込むようにして、春彦に尋ねた。
「うん、悠美ちゃんに頼まれた漫画。
 サザエさん、全巻持っていけないけど、とりあえず、5冊詰め込んだんだ。」
「全巻て、いったい何冊あるのか知ってるの?」
「この前、本屋に行ったら、70冊もあったよ。
 でも5冊で、おこずかいがすっ飛んだ。
 舞様、臨時のおこずかい、お願いします。」
春彦は、両手を合わせ、舞に拝みこんだ。
「べーだ。」
舞は、ウィンクしながら、舌を出した。
「でも、5冊でもおこずかい足りなかったんじゃない。」
「ああ、お年玉まで手を出した。」
「やれやれ、あきれた。」
そんな会話をしながら、二人は悠美の入院している病院にたどり着いた。
「そうそう、春。」
「ん?」
「悠美ちゃんは、女の人だけの病室に入院してるのよ。
 男子禁制だから、女の子の振りをしなくちゃだめだよ」
「おーい、どこの世界の話?
 じゃあ、光ちゃんなんて女装して付き添っているのか!」
「ちっ、かわいくないなぁ。」
他愛のない話をしながら、二人は、悠美の病室の前に来た。
春彦は、心なしか緊張を覚えた。
「おーす、悠美ちゃん。
 お見舞いに来たよー」
そんな春彦の心を察してか、舞はさっさと病室に入り、カーテンで区切られている悠美のところに入っていった。
「わー、舞ちゃん、お見舞いに来てくれたんだ。
 ありがとー。
 廊下の方で、声が聞こえたので、そうかと思ってたんだ。」
カーテン越しに悠美の明るい声が聞こえた。
「春も来てるよ。
 何してんだろう。」
そんな声が聞こえ、ひょこっとカーテンから舞が顔を出した。
「ほら、春。
 恥ずかしがってないで、入っておいで。」
春彦は、部屋に入り悠美のいる一角に入っていった。
「悠美ちゃん、こんにちは。」
「わー、春ちゃん、来てくれたんだ。
 待ってたよ。」
悠美は、ベッドに腰掛け、春彦の方に笑顔を向けていた。
悠美は薄いピンクの花柄のパジャマに、白っぽいカーデガンを羽織っていた。
元気そうな悠美を見て、春彦は少し安心した。
「うん。
 はい、これ。」
春彦は、紙袋を悠美の方に差し出した。
「えー、何かな?」
悠美は、紙袋を受け取り、ごそごそと中を確認した。
「あー、これサザエさんじゃない。
 しかも、5冊も!
 ありがとう、重かったでしょう。」
悠美は万遍な笑みを浮かべて、言った。
春彦は、嬉しくて照れ笑いした。
「悠美、元気そうだね。
 どう、調子は?」
舞が悠美のベッドに並んで腰掛けて尋ねた。
「うん、ここのところ、痛みがあったりで、あまり良くなかったの。
 でも、今日は、すごく調子いいのよ。」
悠美は、両手で力こぶを作るまねをした。
「そうなの。
 薬は、ちゃんと飲んでる?
 食事は、ちゃんと取ってる?」
「あまり、食欲はないけど、頑張って食べてまーす。」
悠美は、舞を実の姉のように慕っており、つい、甘えたような態度になっていた。
舞も、そんな悠美を自分の妹のように可愛がり、いろいろと世話を焼いていた。
「そうね、ゆっくり、一歩一歩治していかなきゃね。」
「うん」
そんな二人の会話を、春彦はじっと聞いていた。
「そういえば、光一君は?」
「兄さんは、さっき地下の売店に行くって、出ていったわ。」
「そう、じゃあ、私も、ちょっと売店に行ってこようかな。
 春、ここは、女性だけの病室だから、おとなしくするのよ。」
「って、わかってるって。」
春彦は、少し口をとがらせて言った。
悠美はそんなやり取りが面白いのか、うつむいて、くっくと笑っていた。
「じゃあ、また、あとでね。」
「でも、すれ違ったりしないかなぁ。」
「大丈夫、その時はその時。
 じゃあね。」
舞は、悠美に背を向け片手をあげて病室を出ていった。
「まったく、母さんは…。」
と言いかけ、笑顔でじっと見つめている悠美の視線に気づき、春彦は悠美の方に顔を向けた。
悠美は、嬉しくて嬉しくてどうしようもないと言わんばかりにじっと見つめていた。
小さい頃から、よく悠美には、そうやって見つめられることがあったが、今日は特別嬉しいやら恥ずかしいやらで、ドキドキした。
「春ちゃん、久し振りね。
 元気してた?
 学校は、どう?」
悠美は、春彦の顔から眼を離さず、笑顔のまま尋ねた。
「うん、元気だよ。
 学校も、ぽちぽちだよ」
「中学2年になって、佳奈ちゃんとは、クラスが違うんだっけ?」
「うん、佳奈が1組で、僕は4組。」
「じゃあ、学校で話したりしないの。」
「いや、なんだかんだで、休み時間話したり、帰りに一緒に帰ったりしてるよ。」
「そうなんだ、じゃあ、相変わらず仲良しだね。
 安心した。
 でも、転入してから半年だっけ?
 すぐにクラス替えで、友達出来た?」
「うん、そこそこ。」
「そうなの?
 よかった。」
春彦は、もともと今住んでいる場所の近くで暮らしていたが、父親の仕事の関係で、違う土地に引っ越し、そのため小学校低学年の時に転校していった。
それからしばらくし、中学1年の途中でまた、この土地に戻ってきたのだった。
悠美はそんな春彦を心配し、いろいろと聞き出し、学校生活が無事に送れているとわかると心底、ほっとしていた。
そして、悠美は腰かけたまま腕を上にあげ、伸びをした。
「ちょっと、疲れたから、ベッドで寄りかかるから、いいって言うまで、回れ右。
 こっち見ないでね。」
「うん。」
春彦は言われるままに、悠美に背を向けた。
悠美の方から、ベッドに上って坐りなおす音、何かを外す音が聞えていた。

一方、舞は病室を出て、見舞客用のエレベータで地下に降りていった。
エレベータから降り、きょろきょろしていると声を掛けられた。
「舞さん、こっち。」
「あら、光ちゃん、待った?」
振り返ると光一が立っていた。
「そろそろ来る頃だと思って、待ってました。」
「そっかぁ、じゃあ、どこかで座って少し話さない?」
「はい、このフロアに喫茶店がありますが。」
「いいわよ、長時間、春と二人にしたら悠美が疲れちゃうだろから。
それに、顔見たら帰るつもりだったんだから。
 あっ、そこの椅子でいいわ。」
「そうですね、春君も困るだろうし。」
光一は、あいまいな笑顔を浮かべた。
「まあ、それは心配ないわ。
 あの二人、恋人同士より、たちが悪いから」
笑いながら二人は待合室のような一角にある長椅子に並んで腰かけた。
「缶コーヒー買って来たんですが、いかがですか?」
「ビールは、ないの?」
「さすがにそれは……。」
光一は、微笑んだ。
舞は、話をしながら光一の様子をうかがった。
光一は、疲れからか顔色が悪く、憔悴した感じだった。
「悠美は、良くないの?」
「うん、ここのところ、だいぶ痛みがひどくなって辛いようです。
 ほとんど、寝たきりなんですが、今日は、舞さんと春彦君が来るって、朝からなんでもなかったかのように元気なんですよ。
 会いました?」
「うん、少しやつれたみたいだけど、いつもとあまり変わらなかったわ。」
「そうなんですよ、僕もびっくりしてます。
 余程、二人に会うのが楽しみだったんでしょうね。」
「いや、あの顔は、“春に”だわね。」
コーヒーを一口飲み、二人は話を続けた。
「お父さん、お母さんは、今日は?」
「母が、夕方に来ます。
 父は、がっくりと気を落としてしまって…。」
「そうよね、お父さん、悠美を目の中に入れても痛くないくらい可愛がってるもんね。」
「そうなんですよ。
だから、悠美の前に立つと、目がうるうるし始めて、情けない顔するもんだから、悠美に帰れって、しょっちゅう、怒られてるんですよ。」
「あらあら。
 それじゃあ、悠美もいい気はしないよね。」
「そうなんですよね、僕も注意はしているんですが。
 それで、家だとお酒ばっかり飲んで。
 油断すると一升瓶空にするんですよ。
 母にもしっかりしなさいって怒られて。」
光一は、苦笑しながら言った。
舞も苦笑した。
「悠美は、知ってるの?」
舞の質問に光一は、一瞬どきっとしたが、顔を左右に振っていった。
「悠美には、何も。
 でも、察しのいい子だから、何か薄々感じてるんじゃないですか。
 父の態度も態度ですから。」
「そう、光ちゃんも大変ね。
 疲れているでしょ、大丈夫?」
「ええ、僕は、まだまだ大丈夫です。
 舞さんにいろいろと話せるので、少し、楽になります。」
微笑みながら、光一は答えた。
「ところで、悠美は、後、どのくらいなの?」
舞のその問いかけに、重苦しい沈黙が流れた。

病室では、ベッドの上で座りなおした悠美が春彦に声をかけた。
「もう、いいよ。
 こっちむいて」
「うん。」
振り返ると、同じように嬉しそうに春彦を見つめている笑顔の悠美がいた。
「あれ?
 少し見ないうちに、春ちゃん、背が伸びた?」
 なんか、大きくなったよ。」
「そっかなぁ。」
「身長、何センチになったの?」
「この前の健康診断で、計ったら170センチだった。」
「えー、じゃあ、1年で15センチくらい伸びたんじゃない?
 とっくに、私を追い越したわね。
 この前、会ったときは同じくらいかと思ったのに。」
悠美は、わざと、目を丸くして見せた。
「どれどれ、ちょっと後ろ向いてみて。」
「うん。」
春彦は言われるままに後ろを向いた。
「わー、大きい背中。
ちょっとこっちに来て、ここに座ってみて。」
悠美は、座っているそばのベッドの端を手でぽんぽんと叩きながら春彦を呼んだ。
「うん。」
春彦は、返事をし、悠美に言われた通りに悠美の横に後ろ向きで腰かけた。
「そのままにしててね。
 よいしょっと。」
声をあげ、悠美がごそごそと動く気配を春彦は感じた。
「?」
どうしたんだろうと思った瞬間、ふわっと、悠美が後ろから春彦の肩から手を回し抱きついてきた。
後ろから抱きしめられるのは、悠美の癖で、春彦は物心つくころから、会うたびにしょっちゅうやられていたことだった。
春彦もそんな悠美の柔らかい感触、体温のぬくもり、悠美の香りが好きだった。
ただ、今日はいつもと違う感触があった。
片膝をついて、春に抱きついているのだが、悠美の左脚の感触がなかった。
悠美が、後ろから春彦の耳元でささやいた。
「春ちゃん、知ってるんでしょう。」
「……
 うん。」
春彦はすこし考え、観念した様に答えた。
春彦は、悠美の左脚が義足だったことを、少し前から知っていた。
それは、いつものように遊びに行き、悠美に待っているように言われたときに、鏡越しに義足が見え、それに手を伸ばして自分のところに引き寄せている悠美の姿を偶然目撃したからだった。
春彦は、びっくりしたが、口には出さず、また、何も見なかったように振る舞うこと、それを誰にも言わないと心に決めて、守っていた。
「やっぱりね。
 春ちゃんは、優しいね。
 気を使って、知らないふりしてたんでしょ。
 ありがとう。」
悠美は、優しい声で続けた。
「このこと、佳奈ちゃんには、言ったの?」
春彦は顔を左右に振り、否定した。
「そう、じゃあ、まだ言わないでね。
 あの子、びっくりして、おろおろしちゃうと思うから。」
春彦は、黙って頷いた。
「二人でおはじきしたり、ビー玉遊びしたり、セミを捕まえたり。
 楽しかったね。
 映画にも行ったよね。
 映画館でポップコーン買って、ばらまいたっけ。
 あれ拾うの大変だっとよね。」
「うん。」
返事をしながら、いきなり何をいいだすのだろうかと春彦は思った。
「ねえ、約束覚えてる?」
「え?」
「ほら、『女の子には優しくするのよ。
 絶対に泣かせちゃだめだからね。』」

そう、それは、春彦が幼稚園の時、悠美と庭で遊んでいて思わず握りこぶしが悠美の顔にあたってしまったとき。
幼稚園児の握りこぶしなので、そんなに痛くないはずなのに、悠美は大げさに痛がり、泣きまねをした。
春彦は、はじめはふざけていると思い、
「痛くないくせに」
と強がっていたが、だんだんとお大変なことをしたとおろおろしながら、悠美を気遣っていた。
「悠美ちゃん、大丈夫?
 痛いの?
 ごめんなさい。」
春彦がだんだんと泣き声になっていったころを見計らって、悠美は泣きまねをしながら言った
「悪いと思ってる?」
「うんうん」
{女の子を間違えても叩いたりしちゃだめよ。
 いじめたり、泣かしたりしちゃだめだからね。
 約束だからね。」
「うん。」
春彦は泣きじゃくりながら答えた。
その返事を聞いて、悠美は笑顔で春彦を思いっきり抱きしめた。
「春ちゃん、大好き!」
春彦は、悠美が泣きマネだと分かったが、絶対に約束は守ろうと心に誓っていた。

「うん、覚えているよ。
 悠美ちゃんの悲しい顔なんか見たくないから。」
「よかった。
 じゃあ、佳奈ちゃんのこと、頼んだからね。」
「えっ?
 佳奈の何を?」
「全部!」
「……?」
春彦は、悠美の言っている意味がわからず、また、悠美の笑顔と話の内容が、どこか食い違っていると戸惑いを覚えた。
「また、どこかに行きたいね。
 退院したら、どこに遊びに行こうか?」
悠美は、戸惑っている春彦をおかまいなしに話しを変えた。
「どこでも、一緒にいくよ」
春彦は答えた。
「絶対だよ。
 うーん、どこがいいかなぁ。
 公園、児童館…、児童館って年でもないね。
 どこへ行こう。」
春彦の後ろで、悠美は無邪気にはしゃぎながら言った。
春彦は、何だか嬉しくなった。
(悠美ちゃん、元気になったじゃないか。)

「あらあら、何じゃれあってるの?」
いきなり舞の声が聞こえた。
見るとカーテンのそばで、舞と光一が笑いながら立っていた。
「うん、今ね、春ちゃんと退院したらどこに遊びに行こうかって話をしていたの。」
悠美は無邪気に言って、春彦から体を離した。
春彦は、悠美の柔らかな感触が去っていくのを残念に思った。
優しい暖かさ、優しい香り、ずっとそばにいたいと思っていた。
「まあ、あんまりはしゃいじゃ疲れちゃうわよ。」
「そうだよ、すこし休まないと。」
舞と、光一は声をそろえていった。
「はーい。」
悠美は、しぶしぶと返事した。
「さあ、春。
 悠美、疲れちゃうから、そろそろお暇しましょう。」
悠美も少し疲れたみたいで、小さく頷いた。
しかし、春彦を見る目は、相変らず嬉しくてたまらないという目で、それに加え、目に焼き付けるかのごとくまじまじと笑顔を絶やさずに見ていた。
そして、視線を舞に向け
「舞ちゃん、今日は、ありがとうございました。」
と、かしこまったように悠美は言った。
舞は、困ったような顔をしていった。
「何を改まったように。
 じゃあ、また来るからね。」
「うん、
 じゃあ、春ちゃん、ばいばい。」
「うん、またね。」
「あっ、やっぱり、途中まで送っていくわ。」
舞と春彦が部屋から出ようとした瞬間、そういって悠美は、ベッドを降りて松葉づえを手にしようとした。
「きゃ」
と軽い悲鳴のような声が聞こえ、悠美はバランスを崩したようだった。
舞と悠美の間にいた春彦が、とっさに悠美を支えようとした時、悠美が春彦の首に手を回し抱きついてきた。
春彦は、悠美の柔らかな感触、暖かさ、悠美の優しい香りが一気に押し寄せ、まるで、悠美のすべてが自分の中に飛び込んできたような錯覚に陥り、ただ、呆然と、しかし、悠美をしっかり支え、立ち尽くした。
「春ちゃん、つっかまえたー。」
悠美は、にこやかに春彦に話しかけた。
「春ちゃん、ちょっと抱き上げて。」
舞と光一は、悠美がわざとバランスを崩すふりをして、春彦に抱きついたことがわかり、呆気にとられていた。
「うん。」
春彦は、何が起こっているのか、まだ理解が出来ていないようで、悠美に言われた通り、腰に手を回し、悠美の脚が少し宙に浮くような感じで抱き上げた。
(悠美ちゃん、やせた、軽くなった…)
春彦は、感じた。
「えへへへ。」
悠美は、満足の笑い声をあげた。
一呼吸おいて、今後は舞に向かって悪戯っぽく話しかけた。
「ねえ、舞ちゃん、春ちゃんを私の弟にしていい?」
悠美は、春彦の肩越しに、今まで見たことのないような、眩しい笑顔を見せ、舞に話しかけた。
「えっ?」
一瞬、舞は何をと思ったが、すぐに、思い当たり、そして半泣きになりながら、それでも笑顔で答えた。
「悠美ったら、まったくこの子は。
 いいわよ、いいわよ。
 可愛がってね。」
それは、悠美が赤ん坊の春彦を抱き上げた時に舞に言ったせりふだった。
「やったぁ。」
嬉しそうな声をあげ、悠美は少し体をそらし、春彦の顔を飛び切りの笑顔で見つめた。
「春ちゃんは、ずーっと、私の弟だからね。」
「うん。」
春彦は、今まで、そう思って接してきたので、何で今更と思いながら頷いて答えた。
「悠美、そんなことじゃ、彼氏がやきもち焼くぞ。」
半分冗談に光一も顔をくしゃくしゃにしながら言った。
光一にとっても、病気であることが嘘のような悠美の姿を見ることは久し振りで、思わず涙が込み上げてきた。
「いいの、春ちゃんは特別。
 私の大好きな弟なんだから。」
悠美は、光一の方を向いて軽くあかんべーをした。
そして、一呼吸おいて、
「春ちゃん、疲れたからベッドに座らせてね。」
「うん、わかった。」
春彦は、そっと悠美を抱き上げながらベッドの傍らまで悠美を連れていき、そっと座らせた。
「ありがとうね。
 じゃあ、これで、本当にバイバイね。」
「うん。
 また来るね。」
悠美は、小首を傾げ、一呼吸おいて言った。
「じゃあ、今度は家でね。」
「うん、じゃあ。」
「じゃあね、ばいばい。
 舞ちゃんも、ばいばい。」
「ええ、じゃぁね。」
悠美は終始笑顔で、ベッドに坐りながら二人を見送った。
舞と春彦は後ろ髪を引かれる思いで、ちょくちょく振り返った。
そのたびに、笑顔で手を振っている悠美と、その傍らに付き添っている光一の姿が見えた。
そして、その姿も見えなくなり、舞と春彦は、病院を後にした。
DATE: CATEGORY:第2章 悠美の伝言
佳奈は、茂子から悠美が会いたがっているっていると聞いて、日曜日になるのを今か今かと首を長くして待っていた。
学校帰りだと、埃っぽかったり、汗臭かったりで、悠美に嫌われる気がして、学校のない日曜日にお見舞いに行くことにしていたのだ。
悠美は、病気の具合が芳しくなく、ここ1か月ほど入院していた。
(きっと退屈しているんだろうなぁ。
お見舞いの品物を何にしようかなぁ。)
と、授業中に考えたりしていた。
(悠美姉は、いつ退院できるのかな。
こんないい季節に病室の中じゃあ可哀想。
そうだ、春もいくのかなぁ?)
悠美は春彦の従姉で、二人より10才程年上だった。
春彦と佳奈は、幼稚園に上がる前から親友同士の茂子と舞に連れられて良く公園で遊んでいた。
そんなある日、春彦に付き添って遊びに来た悠美に見初められ、それからまるで姉妹のよう二人は意気投合していった。
外の風景は5月に入り、緑がいよいよ色濃くなり、風が心地よい季節になっていた。

見舞に行く約束をした日曜日も五月晴れの暑すぎず、寒くもないとっても気持ちの良い日だった。
佳奈は、陽気だけではなく久し振りに悠美に会えるので、うれしく、つい歩みも早くなっていた。
しかし、病院に入ると、逆に足が遅くなり、悠美の病室の前で、緊張し、とうとう立ち尽くしてしまった。
(もし、具合が悪そうだったらどうしよう。
 お見舞いに来たけど、いいのかな……。)
佳奈は、躊躇し、いろいろと考えあぐねたが、勇気を奮って、一歩病室に踏み込んだ。
「あっ!佳奈ちゃん、こっち、こっち。」
懐かしい悠美の声が聞こえ、佳奈は声の方へ顔を向けた。
そこには、ベッドで半身を起こして笑顔で佳奈を手招いている悠美の姿があった。
(少し、やせたみたいだけど、元気そうでよかった。)
佳奈は、ほっとしながら悠美の方に小走で近づいた。
「悠美姉、具合はどうなの?
 入院したって聞いて、びっくりしたのよ。
 具合は、どうなの?」
「あはは、びっくりした?
 ごめん、ごめん。
 ほら、入院って暇でしょ。
 つまらなくて、佳奈ちゃんの顔がみたいなって。」
「えー、私、暇つぶしなの?」
「そうよ、私の可愛い暇つぶし。」
二人は、顔を見合わせて笑いあった。
「具合はねぇ、そんなに悪くないのよ。
 検査で少し引っかかって、入院して治しちゃいましょって、先生が言ったのよ」
「そうなんだ。
いつ頃までかかるの?」
佳奈は、聞いて「しまった」と思った。
病気の治療を受けているのは悠美なのに、軽々しく、「いつまでかかるの」何て聞いて、悠美が、傷ついたらと思うと、自責の念にかられていた。
それを察してか、悠美は明るい声で言った。
「薬が効くまで、少し時間が掛かるんだって。
 でも、あと1~2か月で退院できるんじゃないかって。
 でもね、午前中に診察と投薬治療だけで、あとはベッドの上。
 もう、暇で暇で仕方ないのよ。」
悠美から聞いた状況は、あまり深刻な状況でなさそうなので、佳奈は、心底ほっとした。
そして、持ってきたお見舞い品を持ち出し、悠美に手渡した。
「はい、暇だろうと思って、パズルの本買ってきたの」
「わー、ありがとう。
 クロスワードパズルじゃない。
 私、これ大好きなの。
 さすが、佳奈ちゃん。
 ありがとー。」
悠美は、佳奈から本を受け取り、大事そうに抱きしめた。
「えへへ、喜んでもらえて、良かった。」
「春ちゃんには、私の好きそうな漫画を持ってきてって頼んだのよ。」
「あははは、悠美姉は漫画も好きだもんね。」
「でも、パズルはもっと好きよ。
 ありがとうね、佳奈ちゃん。」
「えへへへ、どういたしまして。」
悠美に喜ばれて、佳奈は照れ臭そうに笑った。
「そうだ、そこの冷蔵庫の中に、ジュースとアイスがあるから、どちらか好きなのを取ってね。」
「えっ?いいの?」
佳奈は、遠慮がちに聞いたが、悠美は笑顔でうなずいた。
「じゃあ、遠慮なく。
 どれどれ。」
と、佳奈は冷蔵庫を開けて中を見た。
冷蔵庫の中には、バニラのカップアイスとサイダーが入っていた。
「本当に、いいの?」
佳奈はもう一度確認した。
いつもは、悠美が手に持って、「どっちがいい?」と、半ば強制的に聞いてくるので、遠慮はいらなかったが、さすがに悠美の分だろうと佳奈は気が引けていた。
「いいのよ。
 お見舞いに来てくれた人用でもあるんだから。
 ちょっと、脚を捻じっちゃって歩けないから、冷蔵庫から出してあげられないけど、遠慮いしないでね。」
「えっ?
 脚を捻じったって?
 動けないほど、ひどいの?」
佳奈は、驚いて尋ねた。
「そんなに、大げさなもんじゃないのよ。
 ちょっとベッドから降りる時に、よろよろ、ぐきって。
 もう、ほとんど痛くないけど、また、捻じって、それで入院が長引いたら、たまらないでしょ。」
「うん、わかった。
 痛くないのね?」
「少しだけ。」
悠美は笑って答えた。
佳奈は、安心し、カップアイスを手に取った。
「じゃあ、カップアイスを頂きます。」
「あはは、やっぱり。
 佳奈ちゃんは、アイスが好きだから、兄さん、買っておいてもらったのよ。
 大正解でした。」
「そういうことなら、遠慮なく。
 頂きまーす。」
「どうぞ、召し上がれ。」
陽気が暖かくなってきたのと、悠美が心配だったので喉が渇いていた佳奈には、普通のカップアイスが、極上のアイスに思えるほど、美味しく感じた。
アイスを食べていながら、ふと、悠美の視線を感じた。
そこには、佳奈を優しく見つめる悠美がいた。
(そうそう、いつも、悠美姉は私を優しく見ていてくれる。
 それが、すごく暖かくて居心地がよく、私は大好きなんだ。)
小さい時から、振り返ると必ず悠美は優しく微笑んでいたことを思い出していた。
「佳奈ちゃん。
 今日の洋服、すごく可愛いわよ。」
「え?」
急に言われ、佳奈はドキッとした。
「そのオレンジ色のワンピース。
 佳奈ちゃんは、明るい色が良く似合うもんね。」
「うん。
 私、オレンジ色って好きなんだ。」
「そうだよね。
 昔から、お絵かきするときオレンジ色ばっかりだったもんね。」
「そんなことないよ~。
 他の色も使っていたよ。」
佳奈は、小さく口をとがらせて抗議した。
「あはははは、ごめんごめん。
 でも、本当に素敵よ。
 佳奈ちゃんがいるだけで、病室がすごく明るくなって。」
「そう?」
佳奈は、嬉しそうにアイスを一口頬張った。
「そうだ、今日は、春は呼んでいないの?」
「うん。
 ほら、病室、狭いでしょ。
 それに、ほかの人もいるから、大勢だと迷惑になるでしょ。
 それと春ちゃんも最近は随分身長が伸びて体つきも大きくなってきたでしょう。」
(そうだ、春は最近身長が伸び、私よりも大きくなったもんなぁ)
そんなことを思いながら、佳奈はアイスをまた頬張った。
アイスを食べ終わった佳奈に、悠美は声をかけた。
「ねえ、佳奈ちゃん。
ちょっとここに来て。」
「うん。
なに?」
悠美は自分が座っている横に来るように手招きした。
「髪が少し乱れているわ。
 ブラシしてあげるから、後ろ向きに座って。」
「わぁい」
佳奈は、喜び勇んで、言われるとおりに悠美のベッドに後ろ向きに腰掛けた。
悠美は、小物入れからブラシをだし、佳奈の髪をとかしはじめた。
佳奈は、小さいころから悠美にブラシをかけてもらうのが好きだった。
「悠美姉のブラシ、久し振りで、うれしいなぁ。」
「ほんと?」
「でも、大丈夫なの?
 疲れたりしない?
 でも、気持良くて、止めてとはいえないんだけど、えっへっへ。」
「大丈夫よ。」
ブラシをしながら悠美は佳奈に話しかけた。
「ねえ、佳奈ちゃん、外はどう?
 気持ちいい?」
「うん、今日は天気がいいし、清々しくて気持ちいいよ。」
「いいなあ、私も外に出たいなぁ。」
「ねえ、悠美姉。
 退院したら、また、一緒に公園とか、買い物にいこうよ。
 ここのところ、半年ぐらい、悠美姉具合が悪くて、一緒に出掛けられなかったでしょ。
 寂しかったのよ。」
「そうね。
 そんなになるんだっけ。」
佳奈にブラシをかけながら、他愛のない話をしていると、通路から声を掛けられた、
「あら、妹さん?」
見ると、同室の小柄な老婆がニコニコ笑いながら二人を見ていた。
老婆は、ちょっと用を足し、戻ってきたところだった。
「そうなの、おばあちゃん。
 可愛いでしょ。」
「そうかいそうかい、めんこいねぇ。
 ゆっくり、お姉ちゃんに甘えていきなさいね。」
と、声をかけカーテン向こうの自分のベッドに戻っていった。
「佳奈ちゃんのこと、妹だって。
 うれしいな、似てるのかなぁ。」
加奈の耳元で、こっそりと悠美がささやいた。
(悠美姉と姉妹だって。
 こんな素敵な悠美姉と姉妹に見えたんだ)
佳奈は嬉しさで半分舞い上がってしまい、悠美のブラシの手が止まっているのを気が付かなかった。
不意に悠美が、優しく佳奈を後ろから抱きしめた。
「悠美姉?」
佳奈は、少し驚いた。
小さいころは、良くこうやって悠美に抱きしめられることがあったが、最近では、大きくなったせいか、なかったことだった。
その頃が思い出せるように、ふわっとした風に乗って悠美の何とも言えない優しい香りに包まれ、佳奈はじっとしていた。
「佳奈ちゃん、いい匂い。
女子力上がったんじゃない?」
固まっている佳奈を抱きしめたまま優しく悠美は話しかけた。
佳奈は、ほのかに香る女性らしい悠美のいい匂いが好きだった。
「私なんて…。
 悠美姉の方がいい匂いよ。
 大好き。」
「えー、病院の中だから、消毒薬の匂いしかしないでしょ。」
悠美がけらけらと笑った。
「そんなことない、悠美姉の優しいにおいがする。」
佳奈はむきになってそれを否定した。
「ありがとうね、佳奈ちゃん。
 ねえ、佳奈ちゃん。
 これから、佳奈ちゃんは素敵な女の子、ううん、女性になっていくわよ。
 私が、太鼓判押ちゃう。
 もっともっと、佳奈ちゃんのそばにいたかったなぁ……」
「えっ?
 悠美姉、なに言ってるの?」
佳奈はびっくりして、飛び上がりそうになった。
「えー?
 だって、そのうち、佳奈ちゃんにも、素敵な彼氏ができて、私のことなんて二番手、三番手で会いになんて来てくれなくなるでしょ?」
すこし、意地悪そうに悠美は言った。
「何言ってるの、悠美姉。
 そんなことないよ。
 悠美姉が一番好き。
 私のお姉ちゃんだもん。」
「そうだね、私たち、仲良し姉妹だもんね。」
一呼吸おいて、悠美は話し続けた。
「でも、ひとつだけ。
 佳奈ちゃん。
 何かあったら、春ちゃんを頼りなさい。
 あの子は、佳奈ちゃんを、ちゃんと守ってくれるからね。」
「えっ?」
悠美は抱きしめていた腕をほどいた。
佳奈は急いで体を悠美の方に向け顔を覗き込んだ。
そこには、初めて見た悠美の悲しげな笑顔があった。
佳奈は、何だか急に不安で心がいっぱいになった。
「悠美姉、いやよ、そんな顔しちゃ。
 どうしたの、今日の悠美姉、なにか変よ……。」
不安からか胸がぎゅーと締まるような寂しい感じがして、いつしか佳奈は涙声になり、泣きじゃくり始めた。
何かが違う、何か重大なことがある、佳奈は不安で押しつぶされそうになっていた。
ふわっと、佳奈の髪を撫でる悠美の手を感じ、佳奈は、顔を上げた。
悠美は、そんな佳奈の髪を撫でながら
「ごめん、そんなつもりじゃなかったのよ。
 そうだね、入院が長引いて、少し、心細くなったのかな。
 早く良くなって、退院したら散歩に付き合ってね」
「うん、絶対だよ。
 約束だからね。」
佳奈は念を押した。
「うん。
 佳奈ちゃんの髪って、触り心地いいね。
 大好き。」
悠美は話をそらすように言った。
「悠美姉。
 絶対だからね。
 元気になって、また、二人で買い物とか遊びに行くんだからね。」
佳奈は真剣に言った。
悠美は、笑いながら何度もうなずいた。
「大丈夫だからね。」
悠美は優しく佳奈に言った。
「絶対?」
「私が佳奈ちゃんとの約束を破ったことある?」
「ううん。」
佳奈は、小さく頭を左右に振った。
そして、悠美の言うことを絶対に信じるんだと自分に言いきかせた。
「さて、佳奈ちゃんの顔を見たら嬉しくて、興奮しちゃった。
 疲れたので、少し休むね。」
「じゃあ、私もこれで帰ります。
 でも、さっきの、絶対約束だからね。
 早く良くなってね。」
「はいはい、大好きな妹にそこまで言われたから、頑張って早く治すわね。
 今日は、来てくれてありがとう。
 気を付けて、帰ってね。」
佳奈が、帰ろうとしたとき、悠美の兄の光一が病室に入ってきた。
「おや、佳奈ちゃんじゃない。
 悠美の見舞いに来てくれたのか。
 ありがとね。」
「はい、でも、ちょうど今帰るところなんです。」
「じゃあ、病院の玄関まで、送っていこう。」
「お兄ちゃん、可愛くなったからって、佳奈ちゃんに手を出さないでよ。」
悪戯っぽく悠美は言った。
「いやだ、悠美姉ってば。」
「そうだね、手なんかだしたら、悠美に半殺しにされるな。」
「全殺しだよ。」
悠美は、楽しそうに言った。
「そうだ、佳奈ちゃんを送っていったら、何か買ってこようか?
 何がいい?」
「それは、当然、カップアイス!
 佳奈ちゃんが、いつアイスを食べに来てくれてもいいようにね。」
それを聞いて、佳奈は思わず笑い出した。
「じゃあ。」
佳奈と悠美はお互いに手を振って別れの挨拶をした。
光一と歩きながら、佳奈は恐る恐るたずねた。
「あのー、悠美姉の具合は、どうなんですか?」
「えっ?なんで?」
「なんか、悠美姉、いつもと感じが違ったような気がして。」
「そうかなぁ、入院が続いて、少し精神的に参っているのかな。」
「そうなんだ、可哀想。」
佳奈は、光一の話に何の疑いも持たなかった。
「まあ、退院すれば、元に戻るよ。」
「ですよね。」
退院という言葉を聞いて、佳奈の声は急に元気になった。
「悠美姉、言ってたのですが、後1~2か月で退院ですって?」
光一は、黙ってうなずいた。
そういう話をしながら、二人は病院の玄関のところまで来ていた。
「じゃあ、佳奈ちゃん、今日はありがとうね。
 悠美は、とっても喜んでいたから。」
「はい、また、お見舞いにきます。
 悠美姉に伝えておいてください。
じゃあ、失礼します。」
佳奈は、ぺこっと光一にお辞儀し、可愛らしい麦わら帽子をかぶって病院を後にした。
光一は、しばらく、佳奈の後ろ姿を見送っていた。
そして、独り言をつぶやいた。
「あと、1~2か月か。」
DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
第1章をお届けしました。
概要や説明が一切なく、何をテーマに?と思われているかもしれません。
読んで薄々感じられたかと思うのですが、春彦と佳奈の人としての成長をテーマにしています。
二人が今までどう歩んできたか、非日常的な事件に巻き込まれ、翻弄される佳奈とそれを支える春彦。
二人で、どう乗り越えていけるのか。
また、春彦だけではなく、二人の心の大きな支えとなっている女性の存在。
両親、友達など、これから徐々に出てきます。

第2章の予告を少し。
第2章は春彦と佳奈に大きな影響を与えた女性の話を少し。
その女性は、悠美と言って、春彦の従姉に当たります。
春彦が小さい時から、春彦を自分の本当の弟のように可愛がり、また、春彦の幼馴染の佳奈も妹のように可愛がっていました。
二人からも姉として慕われていました。
しかし、ある日、悠美は病魔に侵されて…。
第2章は悠美の伝言です。

追記
本当はイラストを載せられたらイメージも沸くかなと思いましたが、残念ながら絵の才能はもっとありません。
なので、逆に登場人物のイメージを極力書かないことにして、皆様がイメージを沸かせていただけたらと思います。
皆様なりの春彦像、佳奈像を持って、読んでいただければ、また、楽しいかと思います。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
佳奈は、それから、意識がはっきりするとともに、体の回復も早くなっていった。
ただ、佳奈の顔からは笑顔が消え、ほとんどいつも無表情で、言葉も少なかった。
精神科の安西からは、やはり、心に大きな傷を負っているので、時間を掛けてカウンセリングを行うが、元に戻るかは、何とも言えないと告げられていた。
更に、悪いことに、両脚の麻痺は、すぐに治療をしてリハビリを行えばよかったのだが、酷い状態で放置されていたので、リハビリをしても歩ける様になるかは、何とも言えないと茂子と一樹は伝えられていた。
茂子と一樹は、それでも生きていてくれれば、その内と希望を持つことにしていた。

春彦と舞は、佳奈の意識が戻ったことを聞き喜んだが、精神が不安定な状態で、とても面会できないと聞き、落胆していた。
茂子が、佳奈に、舞と春彦が見舞いに来たがってると伝えたが、頑として会いたくないと突っぱねていた。
特に、春彦には、こんな自分の姿を絶対に見せたくないという思いから、強く拒絶していた。
ただ、春彦は、佳奈がこん睡状態の時、毎日、仕事帰りに顔を出し、茂子から様態のことを聞いていた。
また、佳奈が目覚めた後、面会謝絶で会えないが、2日に一度くらいに見舞いの花を持って病院に来て、茂子から状況を聞いていた。

事件の方は、あの直後、家宅捜索の令状を持って、刑事たちが屋敷に踏み込み、丸山以下全員の身柄を拘束した。
また、別の部屋から行方不明だった女性が2名発見され、その内、1名は警察が内々に捜査をしていた政府高官の娘であることが判明した。
そのスキャンダラスなニュースはマスコミの目を佳奈ではなく、そちらに向けるのには十分だった。
マスコミは、連日、その高官の娘が監禁されていたこと、監禁していたのが国交のない某国のトップに近い側近だったことで、様々な憶測を並べ報じていた。
佳奈のことは最初に少し報じられただけで、一切、名前など公表されず、また、取材もなかった。
それは、佳奈の状態から好都合なことだった。

加害者である側近は、事件が明るみに出た時に、その息子や家族と素早く、国外に逃げ、某国からは日本政府に根も葉もないでっちあげだという批判をしていた。
しかし、被害者が政府高官の娘であったことから、日本政府も黙っておらず、抗議と身柄引き渡しを求めていた。
そして、数日後、その側近は息子とともに、ちがう理由で粛清されたと報じられ、そのまま、事件はお蔵入りに向かって行った。
丸山達は、逮捕された後、完全に毒気が抜けたのか、取り調べに素直に応じ、余罪も追及されていた。

猿島、猪俣については、刑事たちが踏み込んで、丸山の部下を検挙している時に、一緒に連れて行かれそうになっていた。
「ち、しょうがないね。」
「まったく、運が悪いっすね。」
猿島と猪俣が観念していた時、俊介が刑事に向かって大声で叫んだ。
「その二人は、そっちの人間じゃなく、こっちの人間です。」
俊介の傍らにいた重蔵も大声で言った。
「その二人は、うちの者じゃ。」
その声に、二人は驚いた。
重蔵が、二人に話しかけた。
「どうせ、他に行くと来ないんじゃろ。
 地獄の猿真、全殺しの猪だっけな?
 俊介から、一本筋の通ったやつらと聞いていたわ。
 どうだ、うちで働かんか?」
2人はその申し出に断る理由などなく、涙を流しながら頷いた。
その後、二人は警察で取り調べを受けたが、今回の事件に直接は加害者として関与していなかったこと、事件解決に大いに手助けしたこと、そして、強力な身元引受人がいることから、お灸をすえられただけで、釈放され、重蔵のところに転がり込んだ。

外では事件のことがいろいろと動き、佳奈のところのにも、刑事が事情を聴きにやってきたが、佳奈の状態を配慮して、茂子や一樹を通しての聴取となっていた。
そして、だんだんと事件は沈静化していったが、佳奈の心は一向に塞がったままだった。

いつものように、春彦は佳奈の見舞いに病院に来て、茂子と話していた。
「春彦君、ごめんね。
 いつも見舞いに来てくれるのに、佳奈ったら、誰とも会いたくないって一点張りなの。」
「いいんです。
 あれだけのことがあったんですから、佳奈の気持ちが一番大事です。
 気長に待ちますよ。」
「ありがとう、春彦君。」
茂子が、涙ぐみながら言った。
「それより、おばさん、大丈夫ですか?」
「うん、佳奈が戻ってきてくれたので、元気よ。」
だが、佳奈の今の状態と今後の不透明さで、明らかに茂子はやつれていた。
「そうだ、今日は、花の代わりに、面白いものがあったので持ってきました。
佳奈に渡してください。」
春彦は、紙袋ごと茂子に渡した。
「なにかしら。」
茂子が紙袋を覗き込むと包装された箱が入っていた。
「それ、人形で、明かりがあると首をゆっくり振る、癒し系の人形です。
 見たら可愛くて、ついつい買ってきてしまいました。
 佳奈が気に入ればいいんだけど。」
「ありがとう。
 早速、佳奈に渡すね。」
春彦と別れ、茂子は紙袋を持って、佳奈の病室に戻ってきた。
「佳奈、春彦君がお見舞いを持ってきてくれたわよ。」
茂子が、紙袋から箱を取り出し、回りの包装紙を取って、佳奈に渡した。
「…。」
佳奈は、渡された箱を一瞥しただけで、興味なさげに窓の外を眺めていた。
「面白そうなお人形だって。
 興味が出たら、後で見なさいね。」
茂子は、落胆して言った。

春彦は、家に帰り、自分の部屋でベッドにうつむきで寝転がっていた。
「何か疲れた…。」
春彦も、佳奈が事件に巻き込まれてから、心休まることがなかった。
やっと佳奈を見つけ、何とかここまで漕ぎ着けた感があった。
「まだまだ、佳奈の喜ぶ顔を見るまでは…。」
春彦は、虚ろに思った。
その時。カーテンを揺らし、一陣の心地よい風が、春彦の頭をなでるように入ってきた。
春彦は、ベッドの端に誰かが腰かけた気がした。
「…悠美ちゃん?」
誰もいないはずの、その空間に春彦は呼びかけた。
「春ちゃん。」
春彦は頭を撫でられている気がした。
そして、春彦の上に悠美がのしかかってきて耳元で囁いた気がした。
「春ちゃん、お疲れ様。
 頑張ったね。
 春ちゃんの頑張りは、全部わかってるからね。」
「えへへ、久し振りに、褒められた…。」
春彦は、気が緩み、今までの疲れが一気に出たように、でも、にこやかな顔をして、眠りについていた。
「今日は、ゆっくりおやすみなさいね。」
その風は、春彦の額にそっと口づけをしていった。

茂子が家に帰り、佳奈は病室に一人になった。
いつものように、ぼーっとしながら、寝返りを打った時、手に箱が当たった。
佳奈は、ベッドの上に上半身を立て座れるくらいに回復していた。
そーっと、上半身を起き上がらせ、ベッドの枠に寄りかかり、手に当たった箱を眺めていた。
そして、箱を開け、中身を出してみた。
中には、ベンチに座っている男の子と女の子の人形で、明るいところに出すと、その2体の人形は、お互いに首をゆっくり振っていた。
佳奈は、時間も忘れ、じっとその人形たちを眺めていた。
翌朝、看護婦の高橋が、いつものように朝食の前に様子を見に来た。
佳奈は、すでに起きていて、上半身を起こし、熱心に人形を見ていた。
高橋は、佳奈の視線の先の人形に目をやった。
男の子と女の子の人形が仲良く首を振っていて、見てるとほのぼのしてくるようだった。
「菅井さん、可愛い人形ね。
 お母さんが持ってきたの?」
「いいえ、春彦が私にって…。」
そういいながら、佳奈は微かにほほ笑んだ。
高橋は、佳奈の変化に気が付いたが、大騒ぎせずにつづけた。
「あら、よかったわね。
 じゃあ、食事にしましょう。」
「はい。」
今度は、しっかりと佳奈の微笑んだ顔が見て取れた。
高橋は、ナースステーションに戻ると早速、医師の岩崎や安西に報告した。
茂子が、病院にやってくると、高橋は早速、茂子を捕まえて、佳奈が感情を表に出しはじめたこと、医師からいい傾向だと言われていることを告げた。
茂子は、目も前に光が差したように嬉しくなり、病室に足早に向かった。
病室に入ると、人形に合わせ、首をかしげている佳奈が目に入った。
「佳奈ちゃん、楽しそうね。
 昨日のお人形って、それかしら。
 まあ、かわいいわね。」
人形は、太陽の陽を感じて動き続けている。
「うん、とても可愛い。」
佳奈が、微笑んだ。
まだ、どこかぎこちない笑顔だが、確かに佳奈は微笑んでいた。
その顔を見て、茂子は、思わず涙ぐみそうになった。
そして、心の中で人形を買ってきた春彦に感謝した。
(そうよ、時間が立てば少しづつ良くなっていくわ。
 春彦君、ありがとう。)
佳奈は、やっと、1歩踏み出そうとしたところだった。
DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
その頃、春彦たちは、屋敷の中庭に出ていた。
春彦は、抱いている佳奈の体温が下がってきていることに気が付き、立ち止まった。
そして、そっと抱いている腕の力を籠め、佳奈の顔に自分の顔を近づけた。
そして、佳奈の耳元で小さく「佳奈、頑張れ」と囁いた。
「春彦君?」
一樹が、どうかしたのかと春彦に声をかけた。
「佳奈の様子が、かなり悪いみたいです。
 早く病院へ。」
春彦は冷静に答えた。
「う、うん。」
4人は、建物の外に出た。
そとには、茂子のほかに、十人近くの警官や私服姿の刑事が立っていた。
重蔵が知り合いの刑事に事前に事態を説明し、これから屋敷に入ると連絡したからだった。
ただ、令状も何もないので、外で出てくるのをやきもきしながら待っていたのだった。
重蔵が、その中の一人にあわただしく声をかけた。
「三上、この娘が監禁されていた娘だ。
 早く病院に連れていかなければ、危ない状況だ。」
茂子が、すっ飛んで佳奈のところに来た。
「佳奈、佳奈、しっかりしなさい。
 お母さんよ。
 しっかりしなさい。」
変わり果てた我が子を見て、茂子は半狂乱になっていた。
「すぐに、救急車を呼ぶから。」
三上と呼ばれた刑事は、重蔵に頷いていった。
「いえ、もう、病院は手配してますので、私が連れていきます。」
春彦が、横から口をはさんだ。
「茂子さん、一樹さん、早く車に。」
「わかった。」
春彦の車の後部座席に茂子と一樹が乗り込み、その膝の上にそっと、シーツにくるまれた佳奈を横たえ、春彦は、運転席に入り込んだ。
そして運転席で、急いで春彦は舞の携帯に電話を掛けた。
「もしもし、母さん?」
「春彦?どうだった?」
「佳奈は助け出したけど、予想以上に様態が悪い。」
冷静に春彦は状況を舞に伝えた。
「病院の方は?」
「もう手配して、お医者さんが待っていてくれているから、早く来なさい。」
電話口で怒鳴るように、舞が言った。
電話を切り、車を出そうとした時、三上に声を掛けられた。
「パトカーで先導するから、病院名を教えなさい。」
「すみません、よろしくお願いします。」
あわただしく、行き先の病院を言ってパトカーを先頭に春彦の車は、佳奈を乗せ走り出した。
車の中では、茂子が必死になって佳奈の名前を呼んでいた。
佳奈は、薄い意識の中で、春彦に名前を呼ばれたこと、その時に、何か温かいものが胸の中に流れ込んできたのと、一樹と茂子の声がぼーっと聞こえた気がしていた。
舞は、甥にあたる光一に事前に状況を話、悠美が入院していた病院を手配して待っていた。
悠美の入院していた病院は、設備も整っているこの辺では一番大きく評判の良い病院だった。
普通は、そういう話をしても取り入ってはもらえないのだが、病院の古くからいる医師や看護婦は悠美のことを覚えていて、その身内の光一や舞からの頼みだったので、二つ返事で快く協力してくれることになった。
悠美は、その明るい、人懐っこい性格から、医師や看護婦から評判がよく、それで10年以上も経つのについ先日のことの様に覚えられていた。
「あの、こんなことって?」
比較的新しい看護婦が、年配の看護婦に尋ねた。
「そうね、あなたは知らないものね。
 すごく、そう、笑うかもしれないけど天使のような患者さんがいたの。
 でも、残念ながらここで亡くなったの。
 すごく印象に残る人で、まだ、みんな覚えているのよ。
 その人が実の妹のように可愛がっていた娘だっていうからね。
 ほら、来たみたい。」
遠くからパトカーのサイレンが近づいてきて、急患の通用口に滑り込んできた。
病院側は、すでにストレッチャーを用意して待っていた。
春彦は、佳奈をそっと抱き、ストレッチャーに横たえた。
そして、近くにいた医師に、猿島から言われたことを伝えた。
「わかりました。
 急ぎましょう。」
看護婦が急いで佳奈の横たわっているストレッチャーを治療室に運び込んだ。
「先生、佳奈のことをどうかお願いします。」
茂子がすがり付くように医師に言った。
医師はこわばった顔でうなずき、治療室に入っていった。
治療室では、ばたばたと準備が進んでいた。
医師と看護婦が数名で、佳奈のまとっていた寝具を取り、状況を確認した。
「これは、ひどい。」
あまりの状態のひどさに、皆、絶句してしまった。
佳奈は、がりがりにやせてしまっていて、また、背中から足まで床ずれがひどく、そこから、化膿し、ひどい状態だった。
また、事故にあったということで、あちらこちらに怪我の跡があり、どこか骨が折れているか、内臓が損傷しているか、くまなく確認しなければならなかった。
佳奈を見ていた医師や看護婦たちは、あまりの酷さに絶句して棒立ちとなった。
その時、治療室にいる全員が、風が通り抜けたような気がした。
若い看護婦がはっと我に返り、見わたすと、医師やベテランの看護婦たちが涙ぐんでいた。
「あの…」
その看護婦が声をかけると、全員がはっとし、いそいで処置を始めた。
治療や検査で10時間以上かかっていた。
治療室の外ではベンチに茂子と一樹が祈るように座っていた。
春彦は、舞に合図され、少し離れた待合室にいた。
すでに病院の待合室は真っ暗で、非常灯と自動販売機の明かりだけがついていた。
「ご苦労様。
 あんたは、怪我とかは大丈夫?
 他の人は?」
「ああ、皆、だいじょうぶ。
 多少の怪我はしたけど、大したことないよ。」
「あんた、そのおでこは?」
舞が春彦の額に血の跡と赤くなっている傷を見つけて言った。
「これ?
ちょっともみ合ってる時に、やられたんだけど、すぐに血も止まり、かすり傷だよ。」
「念のため、後で診てもらいなさい。」
「わかった。」
「佳奈ちゃん、かなり危険な状態だって?」
「ああ、でも、きっと大丈夫。
 この病院は、悠美ちゃんが入院していた病院だからね。」
「そうね…。」
でも、結果は残念だったのよと舞は言おうとして口をつぐんだ。
心の中では、そう思う反面、春彦の言うほうにかけていた。
長時間の処置が済み、医師が出てきて状況の説明を4人にした。
佳奈は、全身打撲のほか、肋骨と脚に骨折が見られ、一番ひどいのは、栄養失調と床ずれが化膿し、そこから雑菌が入り全身に回っており、ここ2~3日が山だろうと語った。
茂子は、がっくり肩を落とし、一樹がその肩を抱きしめた。
あまりの残酷な状況で、茂子はさめざめと泣いていた。
舞と春彦は唇をかみしめ、じっと聞いていた。
舞は茂子の傍にひざまずき、泣いている茂子を励ました。
「茂子、何泣いてるの。
 佳奈ちゃん、ダメと決まったわけではないでしょ。
 先生が、いま、そういったじゃない。
 いまも佳奈ちゃん、頑張ってるのよ。
 みんなで応援しなくちゃね。」
「そうですよ、まだ、無菌室なので入れませんが、ガラス越しに様子を見ることが出来ますので、励ましてあげてくださいね。」
医師の言葉に茂子は何度も何度もうなずいた。
「そうよね、このくらいじゃへこたれない子だから。
 ね、一樹さん。」
「そうだよ。
 佳奈は強いから大丈夫。」
一樹は頷いて茂子の手を取った。
「さあ、様子を見に行こう。」
皆、無菌室の外からガラス越しに佳奈を見た。
佳奈は、全身、包帯だらけで、酸素吸入器を付けられ、いろいろな医療器具につながれていた。
そのあまりのむごさに、一同、声をなくし立ち尽くした。
春彦は、ギリギリと奥歯を嫌というほど噛み、髪の毛が静電気でぼさぼさになるかのようだった。
そして、そっと、その場を去ろうとした。
その時、春彦の手を舞が握りしめた。
「あんた、バカなこと考えるんじゃないわよ。」
小声で、ぴしゃりと言われ、春彦は脱力した。
茂子は、ガラスに張り付くようにして、佳奈に向かって声を絞り出していた。
「佳奈、頑張るのよ。
 皆、いるからね。」

佳奈は、青空の下、きれいな花が咲き誇っている公園のベンチに座っていた。
その横には、どこか懐かしい、優しく微笑んで坐っている女性がいた。
佳奈は、その女性を見て、声を出した。
「ゆ…み…ねえ?
悠美姉?」
「そうよ、佳奈、久し振り。」
悠美は、優しく微笑んで答えた。
「たいへんだったね。
 すごく痛かったでしょう。」
そういうと、悠美は立ち上がり、佳奈の前に立ち、やさしく両手で佳奈の頬を撫で、自分の胸に抱き寄せた。
「わあい、久し振りに悠美姉に抱かれた。
 やっぱり、悠美姉、柔らかいし、いい匂い。
 大好き。」
佳奈は、そういいながら自分から悠美の胸に顔を埋めて、思いっきり息を吸い込んだ。
「まあ。
 そんなに、顔を押し付けると、鼻がペシャンコになっちゃうわよ。」
悠美は、くすくすと笑った。
「えー、意地悪。」
佳奈は、そこし悠美の胸から顔を離した。
「あら?
 佳奈、胸のあたりが光ってるよ。」
佳奈は、そういわれて自分の胸のあたりを見ると、やわらかな明かりが胸の奥から光っているようだった。
「そうだ、確か、春の声が聞こえ、そしたら胸が暖かくなったの。
 ちょうど、この辺。」
「ふーん、そうなんだ。
 春ちゃんがねえ。
どれどれ。」
悠美は、その光の上に自分の手を添えた。
光は、少し強くなった。
「悠美姉、なんかすごく暖かくて気持ちいい。」
佳奈はうっとりした顔で言った。
悠美は、そんな佳奈を見つめながら優しく言った。
「佳奈。
 佳奈の身体の傷は時間がたてば治るわよ。」
佳奈は頷いた。
「でもね、心の傷は、一人ではなかなか治らないわ。
 だからね、春ちゃんと一緒に治さなきゃだめよ。」
「えっ?」
佳奈は、意味が分からず聞き直した。
「ともかく今は、ゆっくり休んで、体の傷を癒しなさい。
 可愛い佳奈、私の可愛い妹。」
佳奈は、悠美に再び抱かれ、幸せな気持ちで満たされ、目を閉じた。

佳奈は入院してから3日後に峠を越し、まだ、熱は高かったが、取りあえず、命の危機は脱していた。
但し、相変らず、こんこんと眠り続けていた。
まるで、目を開けるのを拒否しているように。
ナースステーションでは、佳奈の処置に携わった若手の看護婦が、一緒に処置室にいたベテラン看護婦に尋ねていた。
「高橋さん、聞いていいですか?」
「ん?なに?」
高橋と呼ばれたベテラン看護婦は、日誌をつけている手を止めて、若手の看護婦の方を向いた。
「あの、いま、無菌室に入っている菅井さんですが、最初に、運び込まれて、処置室に入った時、高橋さんやほかの方、あと、先生も涙ぐんでいませんでしたか?」
「え?
 そうだったかしら…。
 でも、急に何か懐かしいような、とても切ない思いになったのは確かね。
 他の人も、同じようなことを言っていたわ。
 何か…、そう、南雲さんが入院していたころのことを思い出したのかしら…。
 南雲さん、盛んに菅井さんのことを可愛い妹だって自慢していたから。」
「南雲さんて、あの、この病院では有名だった、優しい方でしたっけ。
 他の入院患者さん、特に子供やお年寄りに絶大な人気を誇ってた。」
「絶大な人気って…。」
高橋は、吹き出しかけた。
「でも、確かにそうかも。
 特に小さい子供には、すぐ懐かれて。
 それで、ずいぶん助かったのよ。」
「え?」
「小さい子って入院して、親御さんと離れるとすごく心細くなるじゃない。
 この病院でも、幼稚園児未満には、親御さんの24時間の付き添いは許可してるんだけど、しょっちゅう来れない親御さんや、幼稚園の年長さん、小学校の低学年の子については、場所の関係で面会時間以外は付き添いができないじゃない。」
「ええ、皆、午前中はいいんだけど、親御さんたちが帰った夜とか、凄く寂しそうになったりして。
 なんとかみんなで、明るく慰めているんだけど、大変なんですよね。」
若い看護婦も子供が好きなので、一生懸命世話をするのだが、それだけではなく、看護婦としての仕事もあり、かなりの負担を強いられる時があった。
「南雲さんがいた時、南雲さん自身も子供が大好きみたいで、よく小児病棟に遊びに来ていたの。
 本当は、いけないんだけどね。」
高橋は、ぺろっと舌を出した。
「何といっても、子供たちに好かれる人だし、何よりも、あやし上手なの。
 寂しそうな顔をしている子供の傍に言って、ちょっと話をすると、すぐに、その子は明るくなってね。
 治療を怖がる子や、点滴で無図がる子も、南雲さんとお話しすると、頑張って治療を受けるとか、我慢するっていって…。」
高橋は、思い出したのか、涙ぐんでいた。
「いやね、年取ると涙腺が緩くなるのかしら…。
 なのでね、南雲さんが小児病棟に来ると、すぐに子供たちの輪ができるの。
 私たちも、南雲さんがいてくれると、安心して、一息つくことが出来たのよ。
 だって、その時は、私たち全員子供たちからお払い箱だったから。」
高橋は、笑いながら言った。
「そうそう、それで大変なこともあったの。
 夜中、見回りに来たら、子供が二人もいないの。
 もう、みんな総出で探し回ったの。
 そうしたら、どこにいたと思う?」
「もしかしたら…。」
「そうなの、二人とも、ホームシックにかかり、居てもたっても居られなくなったのね。
 泣きべそかきながら、病院中を彷徨ったみたいなの。
 その時、偶然、南雲さんの病室に入ったみたい。
 南雲さん、びっくりして、二人をベッドに入れて一緒に寝てあげたみたいなの。
 南雲さんから連絡を受け、病室に入った時は、その子たち、安心しきった顔して寝ていたのよ。
 なので、それからはたまに夜も顔を出してくれるようになったの。
 先生たちも、黙認してたわ。」
「でも、南雲さんも確か、重い病気だったと聞きましたが。」
「そう、脚に悪性の腫瘍ができ、手術をしたんだけど、結局…。」
高橋は、大きくため息をついた。
「そんな状態で、子供たちの相手をしていたんですか。
 すごい人だったんですね。」
若手の看護婦は感嘆の声を上げた。
高橋は、寂しそうな顔をして
「ごめんね、ちょっと、顔を洗ってくるわね。」
と言って席を離れた。
洗面所に行く高橋の後姿を見送りながら、若手の看護婦は、自分も出来るかなと自問してた。

佳奈が、次に目を開けた時は、心配そうにのぞき込んでいる茂子の顔があった。
佳奈は、結局1週間無菌室に入っていた。
目は覚めていなかったが、様態も安定し、奇跡的な回復を見せ、無菌室を出て個室に入っていた。
熱も徐々に下がり、さらに様態も安定してきていた。
ただ、意識が戻らず、茂子がつきっきりで、常に話しかけたりしていた。
佳奈が目を開けた時も丁度、佳奈のおでこを撫でながら、話しかけていたところだった。
「かあさん?」
佳奈は、小さな声で言った。
茂子は、うれしくて涙が止まらなかった。
「佳奈ちゃん、大丈夫?」
そういいながら、茂子は、ナースコールを押していた。
佳奈は、しばらく、周りをきょろきょろと見回していた。
そして、急に、顔が恐怖にゆがみ始め、体がわなわなと震えはじめた。
佳奈の異変に茂子は、びっくりし、佳奈の手をつかもうとした。
「いやー!」
佳奈が絶叫を上げ、体を苦しそうによじって、まるで、ここから逃げたいと言わんばかりに暴れはじめた。
「佳奈、どうしたの?
 しっかりしなさい。
 私よ、お母さんよ。
 わからないの?」
佳奈は、相変らず絶叫を上げ、あまりの絶叫で喉を切ったのか、口から血が出ていた。
「どうしたんですか?」
数人の看護婦が病室に飛び込んできた。
佳奈の絶叫はフロア中に聞こえるほどの大きな声だった。
「菅井さん、そんなに暴れたら、あちこち傷が開いちゃいますよ。
 喉も切っちゃっているじゃないですか。」
2人がかりで、佳奈を落ち着かせようと、抑え込んだが、佳奈はそれでも身をよじってあばれ続けていた。
「どうしたんだ。」
担当の医師も病室に飛んできた。
「目を覚ましたら、急に、悲鳴を上げて暴れはじめたんです。」
茂子も、佳奈を抑えつけようとしながら説明した。
「君、安定剤を投与するから用意して。」
「はい。」
返事をした看護婦が、注射器を出したのを見た佳奈は、再び絶叫を上げた。
「いやー、注射は、いやー!」
医師は、鋭く、看護婦に指示を出した。
「君、患者に注射器を見せないで!
 見えないところで僕に渡して。」
「はっ、はい!」
「安定剤と睡眠薬を。」
「はい」
佳奈は、3人がかりで抑えつけられていたが、相変らず苦しげに体をよじっていた。
「佳奈」
佳奈は耳元で自分の名前をはっきりとした声で呼ばれた気がした。
その途端、糸が切れた操り人形にように、がっくりと失神したように横たわった。

佳奈は、急に世界が変わった気がした。
そして、目を開けると、悠美が目で心配そうな顔をしていた。
「佳奈、どうしたの?」
「悠美姉、怖いの。」
佳奈は、半べそをかきながら、悠美の胸に顔を埋めていた。
そして悠美の暖かさと、一番安心できる悠美の香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。
「悠美姉、大好き…。」
「あらあら。
 もう大丈夫だからね。」
悠美は、微笑んで言った。
佳奈は、安心しきって目を閉じていった。

病室では、佳奈が静かになりほっとし、佳奈の容態のチェックをしていた。
「ちょっと、傷が開いたみたいだけど、大丈夫でしょう。
 君、念のため、ガーゼを一式変えて、薬をつけて。
 喉は、ちょっと切っただけみたいだから、このままでも大丈夫でしょう。」
「でも、先生、その薬、すぐ効きましたね。」
「いや、注射を打つ前に、おとなしくなったんだよ。」
そういって、医師は薬の入っている注射器を見せた。
「さて、落ち着いたところで、これからのプランを相談しなければ。」
別室で茂子と茂子に呼ばれて飛んできた一樹、担当の医師の岩崎や精神科の医師の安西、看護婦の高橋など数名が集まり、佳奈の今後のプランについて、相談していた。
一樹から、再度、監禁状態だった佳奈の話を聞き、医師は切り出した。
「やはり、地下室に監禁され、拘束着とで身動きが取れず、たびたび、訳の分からない薬を打たれてたんですよね。
 血液検査から、麻薬のではないようで、逮捕された看護婦の供述では、きつい鎮痛剤だったんですか。
 それで、精神的に不安定になってるんですね。」
安西が、状況を確認した。
「それに、長い眠りから覚め、周りに医療器具があると混乱してあばれるということもたびたびあります。」
岩崎が説明を付け加えた。
「どちらにしても、佳奈さんは、心にダメージを追っていますね。
 体のケアと、心のケアをこれからのプログラムに組み込みます。
 取りあえず、精神安定剤を処方し、目が覚めても、暴れないようにしなくては。」
「先生、どうなるんでしょうか。」
茂子は、心配そうに聞いた。
「長い監禁状態と度重なる精神へのダメージで、おそらく、佳奈さんは精神疾患も患っていると思います。
今は、何とも言えませんが、心のリハビリで、定期的にカウンセリングを行いたいと思います。
ともかく、次に目を覚ました時に、どうなるかですね。」
岩崎は少し考え込んでから茂子に尋ねた。
「でも、先程、最初に目を開けた時、お母さんのことはわかったんですよね?」
「はい。
 おかあさんと呼んでくれました。」
「じゃあ、完全に心が壊れたわけではなさそうなので、期待しましょう。」
「はい。
 よろしくお願いします。」
茂子と、一樹は医師に頭を下げた。
「あら?
 佳奈さん、もうすぐ、目を覚ますわ。」
ベテラン看護婦の高橋がつぶやいた。
「え?」
茂子が、聞き直した。
「ともかく、安定剤を用意して。
 あと、トラウマになっているようだから、注射器は見せないで。
 また、拘束着もだめ。
 悪いが、また、暴れたら、全員で押さえて、安定剤を投与しよう。」
岩崎がてきぱきと皆に指示を出していた。
誰も、なぜ、高橋がそう言ったか、本当に目を覚ますのか疑いもせずに、てきぱきと準備を整え、佳奈の病室に入った。
全員が入って、しばらくしてから、佳奈が薄目を開け始めた。
「佳奈、わかる?
 私よ。お母さんよ。
 お父さんもいるから、心配しないで。」
祈るように茂子は佳奈に話しかけた。
佳奈は、だんだんと目を見開き、恐怖の色を顔に浮かべはじめた。
医師は、そっと、看護婦に抑えつける準備をするようにと合図していた。

「佳奈、大丈夫よ。
 安心しなさい。」

佳奈は耳元で誰かにささやかれた気がした。
その瞬間、小さなため息をついて、落ち着いた顔になった。
医師や看護婦も、佳奈の落ち着いた雰囲気を感じ、少し気を緩めた。
「佳奈さん、わかりますか?」
担当の医師が、佳奈に声をかけた。
佳奈は、無表情に頷いた。
DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
外に出ると、すでに車のところには、福山とその部下の穴吹と小田桐、あと、年配だが体のがっちりした浅黒い男が立っていた。
「あれ?
 福山のおじさん?」
春彦は少し驚いて言った。
「おお、立花君。
 話は、全部、俊介から聞いたよ。
 君たちほどではないが、サポートさせてくれ。」
「それは、たいへん助かります。」
福山俊介の父親の重蔵は、涼しげな顔を春彦に向けて言った。
重蔵は警備会社の社長で、年齢的に俊介には力で劣るが、数々の修羅場を潜り抜けてきた頼りになる人物だった。
春彦にとっても、実際、争うことになると全体が見えなくなるので、全体を見渡して、的確に状況判断できる重蔵が一緒に来てくれるのは、何よりも心強かった。
「立花、親父と、あと二人連れてきた。
 穴吹と小田桐だ。」
春彦は、俊介に紹介された穴吹と小田桐に挨拶をした。
穴吹と小田桐は二人とも、緊張しながら挨拶を返した。
「今日は、すみません。
 危ない目に逢すかもしれませんが、是非、よろしくお願いします。」
「いえ、気にしないでください。
 僕たちも、俊介さんと一緒にお手伝いができ、光栄です。
 絶対に、無事に菅井さんを取り返しましょう。」
「よろしくお願いします。」
春彦は、穴吹の顔を見たことがあるのを思い出した。
たまに、春彦は俊介に頼まれて、実践形式の組手、稽古に付き合わされていた。
その場には、いつも佳奈が付き添い、春彦が我を忘れ、危ない状況になると春彦を制する役を担当していた。
たまに、それをよく見学していたのが、穴吹だった。
穴吹は、そういうことで親しからずだが、佳奈とも面識があるので、危険を顧みずに一緒に行くことを何の迷いもなかった。
春彦は最後に俊介に近づいた。
そして、黙ってこぶしを作り俊介の方に、そのこぶしを伸ばした。
「ん?」
俊介は、春彦の雰囲気がいつもと違うことを感じとっていた。
(春彦、気合が入っているのか…)
俊介は、春彦が何かから解き放たれているように感じた。
そして俊介も同じように、黙って頷き、こぶしを合わせた。
そうしていると、茂子と一樹が小走りで近づいてきた。
「すみません。
 待たせてしまって。」
一樹が、春彦たちにお辞儀しながら言った。
その横の茂子も一緒にお辞儀をした。
2人とも、居てもたっても居られないかのように、速足で、最後には小走りできたせいか、息を切らせていた。
春彦は、一樹と茂子に福山親子とその部下の2人を紹介した。
「今日は、何と言っていいか。
 私の佳奈のことで。ご協力いただきまして、本当にありがとうございます。」
一樹がお礼を述べた。
重蔵は、笑って片手をあげ、挨拶をしていた。
「お父さん、礼はお嬢さんを助け出してからじゃ。」
「さあ、じゃあ、今まで話した段取りで行きましょう。」
春彦が出発をつげ、春彦の車に一樹を茂子が、後は福山親子が乗ってきたバンが続いて、佳奈が監禁されている屋敷に向かった。
屋敷の近くのコイン駐車場に二組の車を止め、茂子と念のため小田桐を車に残し、あとの4人は待ち合わせの場所に近づいた。
そして、17時ちょうどに、そーっと、裏口のドアが開き、中から細身の鋭い目つきをした猿島が顔を出した。
それを見て、春彦が皆を引き連れ猿島の方に向かった。
「あんたが、立花?」
春彦は、黙ってうなずいた。
「勘定できそうなのは5人?」
「いや、3人です。
 一人は佳奈の父親ともう一人はサポート役です。」
春彦は、一樹と重蔵に視線を飛ばし、説明した。
「まあ、こっちも2人いるから、何とかなるか。
 いま、丁度、向こうは5人だから。
 ただ、なるべく争いは避けたほうがいいね。
 相手はプロだから、無事に助け出したければね。」
「わかってます。」
「ふーん」
落ち着いている春彦を見て、猿島は少し感心していた。
(この子、肝が据わってるね)
「じゃあ、行こう。
 あの娘、結構弱ってるから、早いほうが良いよ。」
猿島のその一言で、全員に緊張が走った。
裏口から全員、屋敷の敷地に入った。
裏口から屋敷にかけて、少し、距離があり、全員静かに音をたてないように注意しながら屋敷に向かって移動し始めた。
その途端、屋敷の通用口が開き、一人の男が飛び出してきた。
その男は、左腕から血を流し、右手でその傷を押さえていた。
「ちっ」と猿島は小さく舌打ちし、男に向かって小声で呼びかけた。
「猪、こっち」
男は、猪俣だった。
猪俣は、腕を押さえながら猿島たちに近づいてきた。
「どうしたの?」
「やつら、やっぱ、拳銃とか持っていやがった。
 武器庫に鍵をかけて、取り出せないようにしたんだが、見つかっちまって、このありさまさ。
 こっちは、あの娘の王子様か?」
怪我をしながらも猪俣はウィンクしながら軽口をたたいた。
「こいつは、猪俣と言って、今回の協力者だよ。」
猿島が簡単に紹介した。
その時、猪俣の後を追ってか、スーツ姿の二人の男が飛び出してきた。
2人は、あたり見渡し、春彦たちを見つけると、無言で小走りに近づいてきた。
2人とも無表情で、手には警棒のようなものを持っていた。
「ちっ」
また、猿島が舌打ちし、近づいてくる男たちに向かっていこうとした。
猪俣も、傷を負いながら、猿島に続こうと身を起こした。
その時、猿島の横を春彦と俊介が、何も言わずに走り抜け、男たちに向かって行った。
「ちょ、ちょっと。」
猿島は、あ然として、その場に立ち尽くした。
「さて、俊介はいいが、立花君がなあ。」
いつの間にか近づいていた重蔵がつぶやいた。
「え?」
訳がわからず、猿島と猪俣は春彦たちに視線を向けた。
相手の傭兵も、春彦たちも4人とも、無言で小走りに間合いを詰めていった。
そして、1対1で二組の争いが始まった。
誰も声を出さず、むだな動きをせずに、正確に相手の急所めがけて警棒を振り下ろす相手に俊介はギリギリのところでかわしていた。
そして、少しの隙を見つけ、蹴りをその警棒を持っている腕にあて、警棒を落とさせ、矢継ぎ早に、掌底を相手の急所に打ち込んだ。
たまらずに男は、何も言わずに崩れ落ちた。
俊介は、春彦を目で探した。
春彦は、すぐ近くで、もう一人の男と対峙していた。
「ぐがが…。」
が、すぐに男は苦痛で声にならない声を上げて、のたうち回っていた。
「春彦、ストップ。」
俊介は小さく鋭い声で、次の攻撃を仕掛けようとする春彦を制し、春彦と男の間に割り込んで、男の急所に正拳を当てた。
「ぐっ。」
男は、そのまま、静かになった。
「春彦、額の傷は大丈夫か?」
春彦は、額から血を流していた。
「ああ、大したことはない。
 すぐに止まるよ。」
猿島たちが、春彦たちのところへ合流した。
「立花、あんた。」
猿島は驚愕の眼差しで、春彦を見ていた。
猿島と猪俣は、最初から春彦の挙動を見ていた。
春彦は、まるで無防備で相手との間合いを詰めて行った。
そして、相手が、警棒で春彦の頭を殴った瞬間に、春彦ではなく殴った相手が崩れ落ち、地面にのたうち回っていた。
しかも、どんな時でも声を上げない訓練をされた相手が苦痛で声を上げていたから尚更だった。
「春彦君、本当に大丈夫か?」
一樹は、心配して春彦に声をかけた。
「ええ、かすり傷なので。
 ほら、もう血は止まっています。」
見ると、本当にかすり傷で、血はもう止まっていた。
猿島と猪俣は信じられないと言った顔で、改めて、春彦を見ていた。
「警棒は、確かに、あんちゃんの頭を捉えていたのに…。
 本当なら、ぱっくり頭が割れて、脳味噌ぶち巻いていたはず…。」
猪俣が信じられないという顔をして言った。
「それもそうだけど、あの用心棒が、瞬殺だよ。
 しかも、苦しそうな声を上げて。」
猿島も呆れた顔で猪俣に続いた。
「さあ、時間がない。
 早く行きましょう。」
春彦の声で、皆、建物の入り口に向かって言った。
重蔵は、腑に落ちない顔をしている猿島と猪俣に小声で言った。
「俊介は、格闘技をやっているので、急所に入れば相手はあっさりダウンするんだが、春彦君のは、相手を、壊しにいってるんだよ。」
「えっ?」
猿島は意味が分からず聞き直していた。
「何と言っていいか、形容しがたいんだが、壊しにいくもんだから、相手は、ひどい苦痛を受けるんだ。
俊介が早く気絶させたからいいけど、そうしないと周りに声が漏れてしまうのさ。
まあ、それだけでなく、一番厄介なのは、春彦君の気だよ。」
「気?」
「ああ、俗に言う殺気ってやつさ。」
「それで相手がどうにかなるのかい?」
猪俣が口を挟んだ。
「彼の殺気は、それだけで、相手を十分倒してしまうほど凄まじいものなんだよ。
おそらくあの男は警棒を振り上げた瞬間に春彦君の殺気に当てられて力が抜けたんだろうな。
だから、春彦君の怪我が大したことなかったんだろう。」
猿島と猪俣は、その話を聞きながら信じられなかったが、確かに男が警棒を振り下ろそうとした時、顔が恐怖で歪んでいたような気がし、思わず唾を飲み込んだ。
「猿島さん、どっちに行けばいい?」
春彦の声で猿島は「はっ」とした。
今は、そんなことに感心しているのではなく、一刻も早く佳奈を救出して、逃げ出さないと、丸山達が戻ってきたら、非常に厄介なことになることを思い出した。
「こっちよ、着いてきて。」
猿島は先頭に立って、建物の内部に入り廊下を進んでいった。
「中には、後、3人いるから気を付けて。」
猪俣が猿島に警告した。
猿島は黙って頷き、それでも足早に速度を落とさず、廊下の先の階段を下って行った。
猿島を先頭に、猪俣、春彦、俊介、穴吹と一樹が続き、しんがりに重蔵といった順で進んでいった。
地下に着いたあと、薄暗い廊下を進んだところに、複数の部屋のドアがあった。
その内の一つのドアのところで、猿島は止まり、ここだと合図した。
猿島が、そっとドアを開け、一同が部屋に入ると、ひどい悪臭が漂っていた。
その部屋のマットレスのところで、ぼろ雑巾のように、一人の人間らしきものが寝かされていた。
「佳奈!」
思わず、一樹が大声を出して、その人間、佳奈のところに走って行った。
春彦も、一樹に続いて小走りに近づいていく。
「おお、佳奈。
佳奈、大丈夫か?」
一樹が、佳奈を抱きかかえようとした時、猿島が鋭い声で制した。
「待って。
この娘、背中から腰、脚と床ずれがひどくて、皮がむけているの。
乱暴に触ったら、皮がずるっと剥けちゃうかも知れないからそっと扱って。」
「えっ、そんなに…。」
一樹は絶句した。
すぐそこに、会いたくて千秋の思いをしていた佳奈がいるのに、手も触れられないとは。
「まず、その拘束着を脱がしてから、そっと何かの布で包んであげないと。」
春彦が猿島の言うことを聞き、取り乱している一樹を落ち着かせ、猿島の手伝いに回った。
部屋にこもっている悪臭は、佳奈からで、ひどい床ずれで背中から全身にかけて、化膿して膿みがでていた。
拘束着を脱がすと、佳奈は、薄汚れた寝具を着せられていた。
「こまめに、あいつらの目を盗んで、寝具を洗ったり、体を拭いてあげてたんだけど、床ずれがひどくなり、凄く痛がって、どうしようもなくなってたんだ。」
猿島は、いつの間にか涙声になっていた。
そして春彦は猿島が用意した比較的きれいなシーツを受け取り、そっと、佳奈をくるんで、腕に抱いた。
佳奈は、驚くほど軽かった。
一樹は、佳奈から片時も離れず、佳奈を覗き込んでいた。
「一樹さん、僕がそっと佳奈を運びますから、一緒について来てください。」
「うんうん。」
一樹は、変わり果てた佳奈の姿を見てショックを隠せなかった。
その時、3人の男が部屋に入ってきた。
先程の一樹の取り乱した声で、休んでいた3人の丸山の部下が駆け付けたのだった。
3人は、先程の二人より手練れで、やはり、有無も言わせずに向かってきた。
俊介、穴吹がひとりづつ、猿島と猪俣が二人がかりでもう一人と対峙し、戦いの火花が切って落とされた。
しかし、相手は傭兵で戦闘に手慣れているため、俊介以外は、押され気味となっていた。
特に猪俣は怪我をしているため、猿島、猪俣は、劣勢に立たされていた。
春彦は、佳奈をそっと下に置き、加勢に回ろうとした。
それを見て、俊介が大声でどなった。
「春彦、ここは何とか食い止めるから、菅井を連れて早く外へ。
 親父、菅井の父ちゃんと春彦をサポートして。」
「わかった、外に出たら、加勢を連れて戻ってくるから、何とかこらえろ。」
「おうさ、穴吹、気合入れろよ。」
「はい。」
そんなやり取りの中、春彦は、俊介の言うことに頷き、佳奈を、下に降ろすのをやめた。
その時、ドアの方から声が聞こえた。
「なんだ、こいつらは。
 なにやってんだぁ。」
声の主は、執事の丸山だった。
丸山は、用事がキャンセルになって、3人の部下を引き連れてもどってきたのだった。
「まずいよ、猿ちゃん。
 丸山が、もう、戻ってきた。」
「わかってるよ。
しかも、お兄さんたち、3人も一緒だよ。
ただでさえ、こっちはいっぱいいっぱいなのに、やばいね。」
猿島は、苦々しい声で答えた。
「ん?猿島に猪俣か。
まさか、お前たち、こいつらを呼び込んだな。
一緒に始末してくれるわ。」
俊介が、対峙していた男を倒し、春彦の傍に戻ってきて言った。
「お前が、悪党の親玉か。」
「何だか知らんが、小童ども。
そうか、そのごみの知り合いか。」
丸山は佳奈の方を見て、毒づいた。
「おい、お前たち、とっとと女ごと始末しちまえ。」
丸山が、顎でしゃくると、新たに入ってきた3人が無表情で春彦たちに向かって歩き始めた。
「おい、その汚くて臭いのをとっとと始末しちゃえ。
 まるで、豚みたいに臭くてたまらん。」
「なんだって人の娘に…。」
一樹は、怒りに震えていた。
「なんだ、お前は、その豚のおやじか。
 安心しろ、すぐに後を追わしてやる。」
その時、急に部屋の中の空気が殺伐とした空気に変わった。
正確にいうと変わった気がした。
春彦は、佳奈を抱きながら、立ち上がり丸山に向き合った。
「お前が、佳奈をこんなにしたのか…。」
どこか威圧感のある声で春彦は丸山に言った。
「なんだ、お前。
 薄気味悪い奴だな。
 ははぁ、その豚女の彼氏か。
 ちょうどいい、一緒にあの世に送ってやるよ。」
「…。」
春彦は、目を閉じ、何かを貯めているようだった。
その春彦から、何か気のようなものが強く感じ始めた。
「おい、全員、気を強く持てよ。」
重蔵が、大声で、穴吹、猿島、猪俣に怒鳴った。
「え?
 はい。」
ただならない気配を感じて、穴吹は、うまく相手のバランスを崩させ、さっと、重蔵の方に戻ってきた。
その時、春彦は目をゆっくりと開き、丸山やその部下たちをにらんだ。
その刹那、春彦から殺気が丸山達に向かって放たれた。
猿島と猪俣は、春彦と丸山達の間から逃げ、横の壁に張り付いて様子をうかがっていた。
「ひっ。」
猿島は思わず悲鳴を上げた。
目線の先の春彦は、まるでテレビで見たことのある巨大なサメの無感情のような瞳と同じ、それ以上に真黒ブラックホールのような瞳をしていた。
その瞳から押し出されている恐怖から、立っていられず、しゃがみ込み、まるで死の絶望からか涙が流れ始めていた。
「殺される。」
猪俣もしゃがみ込みながら、うめき声を上げた。
猿島は、気を振り絞って丸山達を見た。
丸山の部下は、全員、腰を抜かし戦意を喪失どころか、失神寸前で、全員跪いていた。
皆、自分がどうやって殺されていくのかを感じているようだった。
丸山は、さすがに、立って耐えていた。
「春彦、お前…。
まだ、底じゃなかったのか。」
傍らにいた俊介も、春彦の殺気を感じ、息も絶え絶えになっていた。
俊介にとっては、春彦の殺気を何度か体験したことがあったが、今回は、その比ではなかった。
自分に向けられているものではないとわかっているが、それでも、厳しいもので、穴吹は腰くだけのように座り込んでいた。
重蔵は、春彦の後ろで一樹の盾になるように立ちふさがっていた。
一樹は、雷に打たれたように、何が起きているかわからず、ともかく、両手で頭を押さえてしゃがみ込んでいた。
春彦の殺気は、気の弱いものであれば、あっという間に失神するほどのものだった。
「やばいな、これを長時間続けられたら、こっちもまいっちまう。」
俊介がそう感じた時、小さな、今にも切れかけているような声がした。
「は…る…。」
声の主は佳奈だった。
その瞬間、全員が殺気から解放された。
「佳奈。」
春彦は、小さい声で、そっと佳奈に話しかけた。
しかし、佳奈は、答えなかった。
俊介は、周りを見渡した。
相手は、丸山以外は、口から泡を吹いて失神しているように倒れていた。
丸山も苦しそうに肩で息をしていた。
「な…、なんだ、今のは…。」
猿島と猪俣は、春彦の正面ではなく、ギリギリに壁際に寄りかかり、何とか気を繋ぎ止めていた。
「し…かし、すごい子だね…。
 丸山以外は、何も手を出さずとも倒しちゃったよ。」
猿島が、息も絶え絶え猪俣に言った。
「たまらない…。
 こっちも、まじで、死ぬわ。」
猪俣も何とか声を振り絞った
「しかし、丸山もしぶといね。
 あれだけ、直撃されても、立っているよ。」
猿島と猪俣は、あきれ返った声を出した。
「ち、だらしな…い。
 私が、全員、始末してくれるわ。」
丸山はそういうと、懐に手を入れようとした。
その瞬間、丸山は、動きを止め立ち尽くした。
それを見た、猿島と猪俣は、猛烈な勢いで丸山に向かっていき、猿島が蹴り脚で丸山の顔を、猪俣が体に体当たりと、丸山を襲った。
丸山は、そのまま、壁に激突し、崩れ落ちた。
猿島と猪俣は、佳奈を抱いた春彦の方を振り向いた。
春彦は、丸山が懐に手を入れた瞬間、丸山に矢のような殺気を放っていたのだった。
「あいつ、一瞬、丸山にだけ殺気を飛ばしたんじゃないかしら。」
と、猿島は理解した。
俊介も頭を振りながら、春彦に声をかけた。
「春彦、ここはあとやっておくから、早く佳奈を病院へ。」
春彦も、完全に我に返ったかのように頷いた。
「じゃあ、後はお願いします。
一樹さん、大丈夫ですか。
行きましょう。」
春彦が、一樹に声をかけた。
一樹は、何が起こったか理解できないようだったが、すぐに佳奈のことで頭がいっぱいになり、頷き、春彦に抱かれている佳奈の傍に近寄ってきた。
「もう、大丈夫だと思うが、油断するなよ。
ともかく、こいつらを縛り上げとけ。
春彦君たちを屋敷の外に出したら、すぐに戻ってくるから。」
「ああ、親父、頼んだ。」
春彦は、豆腐でも崩れないように、真綿で抱きしめるように、そっと佳奈を抱き歩き始めた。
その時、猿島が声を出した。
「その娘、怪我をして下半身が麻痺してるって。
 あと、ほとんど何も口にしていないから。
点滴でたえていたようなものだからね。
お医者さんにちゃんと伝えて。」
春彦は、猿島の方を見て、頷いた。
そして、先頭に重蔵が立ち、用心しながら部屋の外に出ていった。
そして、重蔵が付いてくるように春彦に促し、春彦たちは、それに続いた。
一樹は、春彦に抱かれている佳奈の傍らにずっと付き添っていた。
4人が部屋を出た後、残された俊介、穴吹、猿島、猪俣は、その場に腰砕けのようにしゃがみ込んで、肩で息をしていた。

しばらくして、穴吹が疲れ切った声で言った。
「俊介さん、あいつら縛らないと、まずいですよね。
 こっちがこんなへとへとな時に、息吹き替えしたら、ちょっとやばいですよね。」
「それなら大丈夫だろう。
春彦のあれをまともに喰らったんだから。
目が覚めても、使い物にならないだろう。」
「そうですね。
 しっかし、あれはやばかったですね。
 あの黒づくめたちと争っているのは平気でしたが、あれは…。
 もう少しで、春彦さんに殺されるところでしたよ。」
「実際、あのまま続いていたら、皆殺しになっていただろうな。」
「あれは、いったい何なんですか。」
「あれは、春彦の殺気だよ。
 今度、ゆっくり話してやるけど、殺気だけではなく、奴は強い。」
そして俊介は呆れたように呟いた。
「しかし、あんな殺気、俺も初めてだよ。
 たぶん、あのままだったら、菅井を下に置いて、全殺しだろう、見境もなく…。
 あの時、菅井が、止めてくれなければね。」
「はあ、あの春彦君が…。
 おっかないな。」
穴吹は、しみじみと言った。
「あんな奴がいるなんて。
私、もう平和に暮らしたいわ。」
「おれも。」
猿島と猪俣が穴吹に呼応するように、声を絞り出した。
「そう言えば、あんたたちは、あいつらの仲間じゃないのか?」
俊介の問いに、猿島は、単に雇われていただけで、仲間でない旨説明した。
「ふーん。
 『地獄の猿真』に『全殺しの猪』かあ。」
「えっ?」
猿島と猪俣は、俊介から出た二人の昔のあだ名にびっくりして、顔を見合わせた。
DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
その頃、猿島は、誰かの気配を感じ、携帯電話を急いで切って、服に隠した。
「あれ?猿ちゃん、携帯電話は禁止だよ。」
声の主は猪俣だった。
猿島は、ほっと安堵のため息を漏らした。
「別に、いいじゃん。
 あんたには、関係ないよ。」
とつっけんどんに猪俣に言った。
猪俣は、そんな猿島のセリフを聞き流すように言った。
「そうだね、関係ないもんな。
 こっちまで、とばっちり食ったら、くわばらくわばら。」
「だから、なんだっていうの?」
「いや、独り言だけど、明日、夕方の17時ごろが怖いお兄さんたちが手薄になるそうだよ。
 なんだか、お坊ちゃまが、どこかに行くとかで、その警護で半数のお兄さんたちが屋敷をでるそうだよ。
まあ、5人くらい残るし、いつ戻ってくるかわからないからね。
でも、チャンスはその時くらいだろうね。」
猿島は、じっと、猪俣を見つめていた。
「おいおい、信じるも信じないも勝手だがね。
ここのお兄さんたちは、プロだから、いくらうちら二人でも厳しいことは確かだよ。
 当然、素人さんには、もっとだけどね。」
猿島は、ため息をつき、小さな笑顔を猪俣に向けた。
「ああ、あんたのことは信じてるから。
 ありがとね。」
「おっ、嬉しいね。
 初めて、猿ちゃんに感謝された。
 じゃあ、うまく行ったら、猿ちゃん、1回、お願いね。」
「考えておくわ。」
猪俣は、猿島の返事ににやりと笑みを浮べたが、すぐに真顔になった。
「ところで、あの娘、もうやばいって、どうしてわかったの?
まあ見ればわかるけど。」
「小山って看護婦がいるだろ?」
「ああ、あのきつい顔して、キツネみたいに目が吊りあがってる姉ちゃんだろ。」
そう言って猪俣は指で目の端の持ち上げて見せた。
「その小山がさ、あたしに教えてくれたんだ。
 衰弱がひどいので、あと2~3日がいいところだろうって。」
「えっ?
 あの小山が?
 あいつら、あの娘を始末したがってたじゃん。」
「うーん、でも、小山って見かけほど悪い奴じゃなさそうなんだ。
あの部屋の匂いも、半分作り物で、臭いにおい液体をあの娘の身体に掛けたり仕手いるみたいなんだ。」
「ええ?
 何でそんなことを。」
「いや、あの黒服の連中、女なら死体とだってもやっちゃうらしいんだよ。
 だから、用なしになったから、真っ先に身体を狙われちゃうんだってさ。
 それで、その気を起こさせないような成分を混ぜた液体を撒いているみたいなんだ。」
「えっ、そうなんだ。」
猪俣は意外そうな顔をして言った。
「確かに、私が世話している時、2、3回男たちがのぞきに来て、鼻を押さえて帰っていったんだ。」
「ふーん、意外だな。」
「まあ、それだけじゃないけどね。
 ただ、あれは、あちら側の人間だから、ここまでらしいけど。」
「複雑だな。」
「そうかぁ。」
猿島は何となく小山の気持ちがわかったような気がしていた。
「じゃあ、もう少し細かな段取りと行きましょうか。」
猪俣は、いくら考えてもわからないことより、現実的なことに話を変えた。
猿島もそれ以上は言わず、佳奈を助け出す段取りに集中していった。

春彦は、足早に帰宅した。
リビングでは、舞がくつろぎながらお酒を飲んでいた。
舞は、春彦がいつもと違い、どこか焦りながら帰ってきたのを見て軽口を言った。
「あれ、春?
 今日は、女のところじゃなかったの?」
春彦は、軽口に何の反応もせず、手短に先程掛かってきた謎の電話のことを舞に言った。
舞も、話を聞きながら徐々に険しい顔になっていた。
そして話しが終わるや否や、春彦の携帯電話が鳴り始めた。
春彦が携帯を見ると、先程と同じ番号からの電話だった。
「もしもし」
春彦が電話に出ると、先程の女性の声がした。
「まず、手短に状況を話すと、あんたが佳奈っていった娘だけど、この屋敷に監禁されていて、身体がとても弱ってる。
医者の話しじゃ、このままじゃ、2、3日持つかどうかの状態だよ。」
「怪我、してるのか?」
「経緯は、わからないけど、怪我もしてるし、ともかく、監禁されている状況が最悪で弱り切ってる。
動けないようにされて、何か、やばい薬を打たれているし、毎日、薬と点滴だけ。
早くしないと、本当にやばいよ。」
「あんたは?」
「私かい?
 私はこの屋敷の使用人の猿島っていうんだ。
 ところで、あんたは?」
「立花だ。
佳奈から聞いていないのか?」
「さっきも言ったように、あの娘、薬を打たれていて、一日中朦朧としてるのさ。
 私は、あの娘の世話を命じられて、世話していながら、こっそり、この電話番号を聞き出したからかけたんだ。
 まあ、信じるも、信じないも、あんた次第だけどね。」
「……。」
春彦は鵜呑みにしていいのか考えこんでいた。
「そうそう、お姉ちゃんがいるんだって?
 『ユミ』とか言う。
 あの娘、うなされながら名前を呼んでいたよ。」
「え?」
その一言を聞いて、春彦は総毛だった。
「すまない、信じる。
 信じるから、どこに監禁されているのかを教えてくれ。
 すぐに、迎えに行くから。」
舞は、電話の話を聞きながら、熱心に、その会話をメモっていた。
猿島が、監禁されている場所のこと、住所を言うたびに春彦は復唱し、それを舞が必死に書き写していた。
「で、やばいのは、この屋敷の持ち主で、どうも、普通じゃないんだよ。
 なんか日本の警察でも迂闊には入れないみたいなんだ。
 後で、確認しておくれ。
 で、傭兵みたいな腕っぷしのたつ、プロの軍団を警護に雇っているから。
 明日の17時に、唯一、手薄になるから、その時を狙わないとだめだよ。
 ところで、あんたは、腕は?」
「普通の会社員だ。」
「まあ、そうだよね。
 腕の立つ手数を揃えられたらいいんだけど。
 手薄になると言っても5,6人は残るみたいだから。
 私ともう一人いるけど、それで太刀打ちできるか厳しいところさ。」
「わかった、それは、何とかする。」
「じゃあ、長電話すると、やつらに感づかれるから、切るよ。
段取りは、わかったね。」
「ああ。」
「じゃあ、覚悟しておいでね。」
と猿島はいい残し、電話を切った。
佳奈を助け出す段取りは、次の通り。
17時に猿島たちが屋敷の裏口を開け、それを待って、猿島たちと一緒に屋敷に入る。
佳奈の監禁されている部屋に案内するから、佳奈を連れて逃げ出す。
相手は、傭兵の様に訓練されている集団だから、極力、争いはせずに逃げること。
また、佳奈は動かないので、担げる担架のようなものを用意するとのことだった。
春彦が、顔を上げると、真剣な顔をした舞が立ち上がっていた。
「春、これから茂子のところに行くよ。
 一樹さん、警察関係に知り合いがいるって言っていたから、何かわかるかもしれないよ。」
「わかった。
 じゃあ、車を回してくるから、母さんも早く用意して。」
「用意なんてないさ。
行くよ。」
2人は、あわただしく、車に乗り込んだ。
舞は、茂子の家に着くまでの間に、車から電話をかけ、状況を簡単に説明し、これから行くと伝えた。
電話口で興奮した茂子の騒ぐ声が電話から漏れ聞こえていた。
茂子の家に着くと、茂子と一樹が興奮した面持ちで舞と春彦を迎えた。
「佳奈が、見つかったの?
 どこにいるの?
 元気なの?」
茂子は、矢継ぎ早に舞に質問を浴びせた。
「茂子、少し落ち着いて。
 立花さん、詳しく教えてくれませんか。」
一樹は、落ち着いて舞からすべてを聞き出そうとした。
舞は、茂子と一樹に、春彦と猿島との電話やり取りの内容を、一言も漏らさないよう、慎重に、取ったメモを見ながら伝えた。
「わかりました。
 まず、警察にその旨を伝えるのと、別に、警察にいる友人に、その屋敷の持ち主のことを聞いてみます。」
一樹は、舞にお辞儀して、足早にリビングの電話のところに行き、電話をかけ始めた。
茂子は、佳奈の命が危ないと聞いて、真っ青になって今にも倒れそうになっていた。
舞が、そんな茂子を支えて、ソファに一緒に坐り、茂子の手を握った。
「大丈夫よ。
 絶対に佳奈ちゃんは、無事に帰ってくるから。」
茂子は、黙って頷き、舞の手を握り返した。
茂子は、佳奈がいなくなってから、食も細くなり、不眠症にもなっていたので、今にも倒れそうになっていた。
「茂子、しっかりしなさいよ。
 佳奈ちゃんが戻ってきたら、茂子がしっかり抱きしめてあげなきゃいけないんだからね。」
「そうよね、そう。
 しっかりしなくちゃ。」
状況は良くないとわかっていたが、手がかりもなく、悶々としているより、居場所が分かり、茂子の顔に少し生気が戻ってきていた。
少しして、一樹が戻ってきた。
「警察は、なんて言ってました?」
「うん、住所を言ったら、ちょっと待ってくれということで、折り返し、電話をくれることになった。」
「えっ?
なんで、すぐに助けに行かないの?」
「どうも、治外法権の場所らしい…。」
一樹は、暗い顔をして言った。
しばらくして、警察から電話が一樹に逢った。
電話を置いた後、一樹は茂子たちに話の内容を伝えた。
佳奈が監禁されている屋敷は、国交が結ばれていない国の要人の屋敷で、一種の治外法権となっており、警察も踏み込めないところということだった。
その屋敷を捜索するには、まず、両国間で話し合いを行い、相手の了承を得ないと行動に起こせないということで、これからその交渉に入ったとしても、結果が出るまで1カ月はかかるということだった。
「でも、そんなに待ったら、弱ってる佳奈が危ないんでしょ?
 その電話の人が言うには、持ってあと少しなんでしょ。」
「そうなんだが、非常にきな臭い国の要人で、日本で何をしているか掴めていないそうだ。
 また、両国に非常に影響力がある人物の屋敷で、迂闊なことはできないらしい。
 本当に佳奈が監禁されている証拠があれば別らしいんだが。」
「そんなことしてたら、佳奈はどうなってしまうの?」
茂子は、また、取り乱しながら、一樹に食って掛かった。
「そんなことは、わかってる…。」
「佳奈…。」
茂子はやっと手がかりが出来たのに何もできず、弱っていく佳奈のことを思い描きながら涙を流し崩れ落ちた。
舞が茂子の肩を抱きしめて、「だいじょうぶだから」と何度も言って落ち着かせようとしていた。
一樹は、そんな茂子を見ながら、じっと考え事をしていた。
そして、決心したかのように、春彦に向かって話しはじめた。
「春彦君、その電話の人の提案の通り、一緒に行ってくれないか。」
春彦は、力強く頷いた。
「立花さん、大事な春彦君を危ない目に合わせるかもしれないが、お願いです。
 せめて、私を屋敷に入れさせてください。
 春彦君には、そこまでで構いません。
 そのあとは、私が何とか佳奈を助け出し、警察に言いますので。」
舞は、顔を横に振った。
「一樹さん、その電話の人の話だと、危ない人が大勢いるらしいわ。
 それに、屋敷の持ち主の情報からも、それは嘘じゃないと思います。
 ですので、春彦を一緒に連れて行ってください。
 春彦は、これでも力もあるし、一樹さんよりは使えると思いますよ。
 それに、何よりも、佳奈ちゃんを早く助けなくちゃ。」
「立花さん…。
 すまない。」
一樹は、自分の非力さがわかっていて、舞に深くお辞儀をした。
「春、わかってるね。」
舞が春彦に向かって言った。
「最初から、そのつもりだよ。」
春彦は気負うことなく、さらりと言い放った。
「春彦君…。」
一樹は、声を詰まらせながら、春彦の手を握っていった。
春彦は頷き、一樹に話しかけた。
「ちょっと、これから、明日の段取りをしますから、ちょっと、失礼します。」
そっと、一樹の手をほどいて、携帯を出しながらリビングを出ていった。
「茂子、一樹さん、大丈夫よ。
 ああ見えても、私とあいつの子供だから。」
茂子と一樹は、その言葉を聞いて頷くだけだった。
ドアを出て、春彦は電話をかけていた。
「もしもし、立花だけど。」
「おお、春か。
 何かあったのか?こんな時間に。」
電話の相手の男の声が答えた。
「ああ、実は頼みがあるんだけど。」
「えっ?
 なんだ?」
相手の男は訝しがるように答えた。
「悪いんだけど、力を返してくれないか。」
「…。」
一瞬電話先の男は黙ったが、すぐに返事を返した。
「それは構わない。
が、何かやばそうだな。
菅井絡みか。
何があったのか話してくれ。」
春彦は、要点を電話の相手に伝えた。
電話の相手は福山俊介といって、春彦の中学時代からの友人だった。
「話しは、わかった。
 手を貸す。
 あと、おやじに言って、使えそうなやつを連れていく。
 だけど、俺と同じくらいの奴は、2人くらいしかいない。
 まあ、お前と俺なら、大抵何とかなると思うが。」
「すまんな、危ないことに顔を突っ込ませて。」
「何言ってんだが。
 じゃあ、明日、お前に家に行って、段取りを確認させてくれ。」
「頼むな。」
「おお。」
そのやり取りの後、春彦は電話を切って、茂子たちのいるリビングに戻った。
「いま、明日の段取りをつけてきました。
 私の友人の中で、一番、信頼がおけて、腕が立つ友人に協力してもらいます。」
一樹は、心配そうに言った。
「でも、その友人まで、危ない目に合わせて、大丈夫なのか?」
「それは、ご心配なく。
 そういうことは、こちらに任せてください。
 それよりも、明日の段取りを決めないとですね。
 電話の主の話しだと、明日の17時ということで、明日、午前中に、相談して決めましょう。
 なので、残念ですが今日はやることがないので、明日に備えて休みましょう。」
春彦は、冷静に言った。
その冷静さが、そこにいる全員に伝染したのか、皆、落ち着きを取り戻し、頷いた。
そのあと、春彦と舞は、家に戻るべく、茂子たちの家を後にした。

次の日の夕方、春彦の運転する車には、一樹と茂子が乗っていた。
舞は、自宅で連絡係で待機だった。
最初は一緒に行くと言い張ったが、春彦に説得させられていた。
「何でよ、何で私も行くって。」
「だめだ。
 もし、俺達から連絡が途切れたら、すぐに、警察に通報してもらわなくちゃいけないんだし。
 助け出した佳奈を連れていく病院の手配とか、母さんじゃなければ出来ないことばかりだから。」
春彦は、おどおどしている茂子は眼中になかった。
また、一樹は一緒に屋敷に入るので連絡が取れ、冷静に物事を判断できる舞を頼りにしていた

「じゃあ、ちょっと行ってくる。」
これから佳奈の救出に困難が待ち受けているのに、春彦はいつものように家を出ようとしていた。
「……」
「えっ?
ああ、そうね。」
春彦を送り出そうとした舞は、急に何かを思い出したように言った。
「ちょっと、お待ちなさい。」
舞は、そういって春彦に近づき、春彦の頭を両腕で挟み込むようにして、自分の胸に春彦を抱きしめた。
春彦は、母親に抱かれるのは幼稚園児依頼で懐かしく思え、抵抗しなかった。
舞は、そんな春彦の耳元にささやいた。
「春彦、今一度、お前を解放します。
気を付けていってきなさい。」
春彦は、にこりと笑って小さく「了解」と言って、舞から離れ、玄関の外に出ていった。
「これでいいのかしら?
 悠美、これは何の呪文なの?」
空を見ながら舞は呟いた。
DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
佳奈が、事故に逢った日、深夜になっても、佳奈が帰ってこないのを茂子は心配で居ても立ってもいられなかった。
佳奈は、遅くなるときは、きちんと事前に連絡を入れるのが常だった。
一樹が、夜遅く帰宅し、佳奈が帰っていないこと、佳奈の携帯がかけても圏外を知らせるメッセージしか出ないことを茂子から聞き、きっと何か大事な用事が出来て、その内連絡があると茂子を落ち着かせていた。
しかし、そう茂子をなだめながら、一樹自身、心配で堪らなかった。
二人は、結局一睡もせずに、佳奈からの連絡を待っていたが、朝になっても連絡が取れず、早々に警察に捜査願いを出した。
舞は、茂子から佳奈が帰宅していないことを聞き、急いで茂子の家を訪ねた。
「どうしたの?
 佳奈ちゃん、帰ってこないの?」
「そうなの、電話しても圏外だし、それに無断外泊なんて今までないのよ。」
茂子は、すっかり憔悴していた。
「そうよね、佳奈ちゃん、いい娘だからそんなことしないもんね。
 何か事件に…。」
事件に巻き込まれたのではと言おうとして、舞は茂子のことを考え途中で言葉を飲み込んだ。
「なにか、心当たりはないの?」
「うん。
 さっき、佳奈の勤め先に電話したんだけど、やっぱり、連絡がないそうで。
 特に変わった様子もなかったって。
 もう、どうしたらいいのか。」
茂子は、とうとう泣き始めた。
「大丈夫、きっと無事に帰ってくるわよ。
 あんなに良い娘なんだから。」
慰めるセリフに考えながら、舞は、茂子の背中をさすって慰めていた。

舞は、帰宅してから春彦に佳奈が行方不明になっていることを、その経緯を含め、説明した。
佳奈が帰っていないことは、朝、茂子から連絡があったのだが、春彦は会社に出た後だったので、春彦の携帯に、帰っていないことだけメッセージを入れておいた。
もしかしたら、春彦が何か知っているのではないかと思ってだが、当然、春彦も寝耳に水のことだった。
そして、会社が引けてから足早に帰宅し、舞から説明を聞いていた。
「それで、今は、警察が事件と事故の両方から捜査してるそうよ。」
「誘拐とかじゃないの?」
「うん、そんな電話もなく、そうじゃないみたい。」
「佳奈は、真面目で固いから、夜も遅くにならないし、滅多に外泊もしないもんなぁ。」
「そうなのよね。
 ともかく、無事で早く帰ってきてほしいわ。」
舞も佳奈が小さい頃から、ずっと見てきたので、心配で仕方ないという顔をしていた。
「大丈夫だよ。
 どっからか、ひょっこり帰ってくるよ。」
春彦は、そんなことをする佳奈ではないことをわかっていたが、心配を打ち消すように、軽口を言うことしかできなかった。
春彦は、佳奈が帰ってこないと聞いてから、ちょくちょく会社でも佳奈の携帯に電話をかけていたのだが、そのたびに、圏外メッセージの返事を聞き、落胆していた。
そんな皆の心配をよそに、時間だけが経って行った。

(ここは、どこ?
 体が痛くて、思うように動けない。)
佳奈は、何が何だか理解が出来なかった。
なぜ、こんな部屋のベッドの上にいるのか、なぜ、体中が痛く、また、体が特に足の感覚がないのか理解できなかった。
苦痛に呻きながら周りを見渡そうとした時、足元の方から声がした。
「おや、気が付きましたか。」
声の主は、佳奈の目が届く範囲の中に入ってきた。
見た目、年配で白髪の紳士のような感じで、まるで執事のようにタキシードのような洋服を身にまとっていた。
佳奈は、苦痛をこらえながら、何とか話をしようとした。
「こ…こは、ど…こ…です…か?」
何とか絞り出すように声を出した。
その白髪の執事のような男は、嫌なものを見ているような、不快そうな声で答えた。
「まあ、よくお目覚めになりましたね。
 あのまま、お亡くなりになるかと思ったのですが。
 失礼、私、執事の丸山と申します。
 あなた様は、お坊ちゃまの車と交通事故を起こされ、ここに運び込まれたのですよ。」
「…。」
佳奈は、少しずつ状況を思い出していた。
(そうだ、夜、買い物帰りに青信号の横断歩道を渡っていたら、すごいスピードの車が向かってきて、凄い衝撃と痛みで…。)
「少し思い出していられますか。
 あなた様が、のんきに横断歩道を渡っていて、お坊ちゃまが、気が付いた時は、ブレーキが間に合わず、あなた様を車に引っかけてしまったのです。
 幸い、人通りもありませんでしたので、あなた様を車に、お乗せして、お乗せしてと言っても、トランクルームにお入れして、この別荘まで運びこんだ次第です。
 まあ、おかげで車は傷がつくわ、トランクルームは汚れるわ、結局、お坊ちゃまのお車は廃車にせざるを得ませんでした。
まったく、ろくでもない方ですね。
あんなところ歩かなかったら、こんな面倒にならなかったのに。」
「?」
佳奈は丸山という男が何を言っているのか理解が出来なかった。
「連絡を頂いて、別荘の手配だとか、医者の手配だとか、まあ、手数がかかりました。
 そうそう、お坊ちゃまと相談し、何かに使えるかと、我家の嘱託医に診せたら、外傷は奇跡的に、そんなひどくなく、2~3か月すれば、だいぶ良くなるみたいです。
なので、あなた様の使い道については、ゆっくりと考えるということで。
あとで、気が付いたということで、医者に診てもらいます。
では、また、後ほど。」
丸山は、慇懃に頭を下げて、部屋からさっさと出て行った。
佳奈は、痛みをこらえながら、自分の状況を確認しようとした。
確かに、ベッドの上だが、拘束着を着せられているのか、体を動かすことが出来なかった。
そのうち、気が遠くなり、暗闇に落ちていった。

「もしもし、菅井佳奈さん、聞こえますか?」
佳奈は呼ばれる声で目を覚ました。
「私は、この家に仕えている医者の小菅と言います。
 いやあ、あなた様は運が良いですね。
 スピードを出していたお坊ちゃまの車に引っかけられたのですが、外傷があるくらいで、内臓破裂だとか命に係わることがないなんて、何て奇跡的なんでしょう。」
佳奈は、少し頭がはっきりしてきて、先程執事と名乗る男との会話を思い出していた。
(そうだ、後で医者を呼ぶと言っていたわ。
 この人がそうなのかしら。
でも、さっきの人と同じで、感じが悪い…。)
「じゃあ、小山君、拘束着を緩めて。」
「はい、小菅先生」
医師の問いかけに答えた女性の声がしたほうを、佳奈は見た。
そこには、中年に近い、化粧も濃く、きつい顔をした看護婦がいた。
その看護婦は、小山と呼ばれ、おそらく医者の専属の看護婦だろうと、佳奈はぼんやりした頭で思った。
「さあ、先生の回診ですから、とっとと協力してください。」
小山と呼ばれている看護婦は、素っ気なくいいながら、乱暴に佳奈につけられている拘束着を緩め始めた。
佳奈は、じっとしていても体中が痛いのに、動かされることで全身火が付いたような痛みを覚え、声にならない悲鳴と顔を苦痛でにじませた。
「少しくらい痛いのは我慢しなさい。」
きつい口調で小山は言い捨てた。
その後、小菅と呼ばれた医者が佳奈の怪我の確認で、いろいろと問答しながら、頭から順に診ていった。
そして脚になった時に、思わず顔を曇らせた。
「足を動かして。」
「足に何か感じるか?」
いろいろと聞かれたり、触られたりされてはいるみたいだったが、佳奈には一切、両脚の感覚がなかった。
小菅は、しばらく考え事をするように、腕を組んで黙っていた。
そして、やおら目を開けてため息をついて小山に向かって
「ちょっと、席を外すから、その間でも、オムツを換えておきなさい。」
「はい、先生。」
二人の会話を聞いて、思わず佳奈は悲鳴を上げた。
「ひっ、おむつ?
 私、おむつさせられているの?」
佳奈は、恥ずかしさと屈辱感で、何が何だか分からなくなっていた。
「じゃあ、頼んだよ。」
小菅は、そう言い残して部屋から出ていった。
小山は、意地悪そうに笑いながら佳奈に近付いてきた。
「あなた、1週間も目を開けなかったんだから当たり前でしょ。
おしっことか垂れ流されたら汚くてたまらないでしょ。」
小山は、残忍そうな言い方をし、佳奈の身体にかかっていたタオルをはぎ取った。
佳奈は、ガウンのような診査着を着せられていた。
その診査着を小山は無表情に下からまくり上げ、佳奈のさせられているオムツをあらわにした。
佳奈は、精一杯、抗ったが体に走る激痛と、小山の力に屈するしかなかった。
しばらくして、小菅と丸山が部屋に入ってきた。
佳奈はぐったりと、また、涙をこらえていた。
丸山は、そんな佳奈を見下ろして、苦々しそうに言った。
「もう、先生に聞いたら、貴女の両脚、麻痺してるんですって。
 まったく、傷が治ったら、少しは楽しませてもらって、そのあと売り払おうと坊ちゃんと言っていたのに。
 本当に、何から何まで使えないんでしょうか。」
「帰して…。
家に帰してください。」
消え入るような声で佳奈は丸山に嘆願した。
「それはできない相談です。
 そんなことして、事故が明るみに出ると、坊ちゃん、いいえ、この金田家に傷がつきます。」
「どうして…?
何も言わないから帰してください。」
「頭が悪い子ですね。
 そんなことは、絶対にできません。
 それより、どうやって始末するかですね。」
「…。」
佳奈は、痛みと激しい動揺とで気が遠くなっていった。
その遠くなっていく意識の中で、丸山と小菅が話す声が聞こえた。
「先生、本当に脚はだめなんですか?」
「おそらく、事故の衝撃でどこかの神経が切れたかで、両脚が麻痺していると思われる。
 リハビリしても動けるようになるかどうかは、わからない。」
「やれやれ、とんだお荷物を、背負い込んでしまったということですね。
 あとで、坊ちゃんと相談しなければ。」

それから4~5日。
佳奈は、治療もろくにされず、たまに小山が、佳奈が騒いだりしないように、拘束着のチェックと強い鎮痛剤を打ちに来ていた。
そのせいか、佳奈は1日中意識がもうろうとしていた。
食事は、点滴が中心で、たまに菓子パンが与えられたが、佳奈には食べる元気がなかった。
また、両脚は、相変らず自分の足ではないみたいに感覚がなかった。
もうろうとしていると、ドアが開き、男が3人入ってきた。
そのうち二人は、執事の丸山と医師の小菅だということが佳奈には分かったが、もう一人は初めて見る男だった。
男は、小太りで脂ぎった顔のいかにも残忍そうな感じだった。
「うっ!
 何だ、この匂いは。
 臭ぇえなぁ。」
「まあ、坊ちゃん。
 仕方ないですよ。
 運び込んでから今まで、シャワーも浴びさせてないんですから。」
丸山に坊ちゃんと呼ばれた男は、大げさに鼻をつまみ
「こんなの、遊びにも何にも使えないんだろう。
 もういいよ、地下室にでも突っ込んでおきな。
 そのうち、弱って死んだら、どっかに捨てればいいから。」
「わかりました、坊ちゃん。」
その男は、佳奈に近付き、佳奈の髪の毛を乱暴につかみ、顔を上げさせ罵倒した。
「お前なんか人間じゃなくて、ただ臭い豚だ。
 俺の車にぶつかりやがって、その汚い体にぶつけられて、車を1台、台無しにされたし、売り物にもなんにもなりゃしない。
 本当に、クズだ。
 ああ、臭ぇえ。」
佳奈は、意識がもうろうとしていたが、自分が何を言われているのか、このようにした張本人が目の前にいるのに、何も言えず、何もできずにいる悔しさで涙が出てきていた。
「こいつ、何泣いてんだ。
 ああ、気色悪い。
 丸山、早く地下室に放り込んどけ。」
「わかりました。」
その日のうちに、佳奈は屋敷の地下室に移された。
地下室は、窓も何もなく、ただマットレスが置いてあるだけの殺風景な部屋だった。
そこに、佳奈は、拘束着を着せられたまま、寝かされた。
「小山君、今日から、こいつには例の薬を打つようにね。」
「え?」
「どうせ、使いものにならんのだから、騒いだりできないようにだよ。」
小菅は、苦々しい顔をして、小山に命じた。
(あの薬、麻薬じゃないの。
 しかも、強烈な…。
 あんなの打ったら、廃人よ。)
「小山、わかったな。」
躊躇して返事をしない小山に、小菅はどなりつけた。
「はい…、わかりました。」
小山は、言うことを聞くしかないと、観念して返事をした。
それから、1週間、何回か金田は、丸山と一緒に佳奈のところに顔を出し、その都度、意識のもうろうとしている佳奈に『汚い』『臭い』の罵詈雑言を浴びせていた。
(このサディストどもが…)
二人に付き添っている小山は心の中で、金田と丸山を罵っていた。

「おい、そこの二人。
 ちょっとこい。」
丸山が3か月前に雇った使用人の男女を呼びつけた。
「猪俣と猿島だったな。」
猪俣と呼ばれた男は、猪俣健二。
小柄だががっちりした体形で、どことなく憎めない顔つきをしている。
猿島と呼ばれた女は、猿島真由美。
長身で長い黒髪のほっそりした体形で、切れ長の目が冷たい印象に拍車をかけていた。
二人は、この家の使用人募集の広告をみて応募し、頃を同じく採用された使用人だった。
しかし、二人は若い頃、おのおのグループを率いて、ギャングのようなことをしていた。
なので、お互い、顔やうわさは知っていたが、こんなところで会うのは初めてだった。
使用人としての募集であったが、腕っぷしが強いことという条件が付いていたことで、胡散臭いと感じていたが、待遇が良いのと、なかなかまともな仕事に就けない現実から、二人はここで勤め始めていた。
仕事は、丸山配下の部下たちの世話が主で、掃除に食事の世話、たまに、格闘技の練習相手をするというかさせられていた。
格闘技と言っても、空手や柔道などの一般的なものではなく、殴る蹴る、投げる、関節技など相手を完膚なきまでに倒す実践的な総合格闘技だった。
なので、本気でやられると猿島も猪俣も怪我をし、使えなくなるので、練習相手と言っても随分手加減されていた。
絞め技で、何度か落とされはしていたが、二人とも、グループのリーダーでかなり、腕がたっていたので、ワザとやられたふりや、痛がるふりをして、ばれないようにかわしていた。
しかし、丸山の部下たちは傭兵のように特殊な訓練を受けていたので力の差があり、抵抗すると命を落としかねないので気を緩めず、うまく立ち回るしかなかった。

「何か?」
猪俣が尋ねた。
「お前たち、随分
この家になれたようだな。
 他の奴らにも評判がいいし。」
「ありがとうございます。」
猿島が答えた。
猿島は、どちらかというと美形で、冷たい印象だがその美貌に拍車をかけていた。
丸山は、ねっとりした目で猿島を眺めまわしながら言った。
「で、お前たち二人は信頼がおけそうなので、ちょっとした用事をお願いする。
 いっしょに、来い。」
丸山は二人を引き連れて、佳奈が監禁されている地下の部屋に向かっていき、その部屋のドアを開けて、二人に入るように促した。
二人は、言われるままに部屋に入ると、むっとする異臭が鼻についた。
部屋の壁際に、マットレスが置かれ、そこに、拘束着を着せられて寝かされている佳奈がいた。
臭いは、佳奈の方から漂ってきていた。
佳奈は、怪しい薬のせいか、生気もなくぼやっとした顔で寝ころんでいた。
「匂いが、たまらんな。
 だんだんひどくなってくる。」
丸山は、額にしわを寄せて、あからさまに嫌な顔をしていた。
「用事は、二人に、こいつを定期的に見て状況を報告してほしいということだ。
 見ての通り、訳ありの人間で、拘束着を着せて、薬を打たないと、暴れてたいへん狂暴な娘だ。」
「娘?
 女か。」
猿島が、ぼそっとつぶやいた。
拘束着を着させられてぼさぼさの髪の毛で顔が良く見えず、言われるまでなかなか性別までわからなかった。
「重い病気もあって、もう、長くはないと医者からも見捨てられている。
 1日一回、薬と栄養剤の点滴と、菓子パンを食べさせているんだが。
 まあ、はっきり言って、お荷物で、早く逝ってほしいんだが。
 なので、たまに生きているか様子を見てほしいのと、そうだ、猿島は女だから女の扱いはわかるよな。」
丸山は、嫌らしい顔をしていった。
「あとは、余計なことは一切せずに、それと、このことは、絶対に外部には漏らすなよ。
 漏らしたら、私の部下が、お前たちを生きてこの家から出られなくするからな。」
残忍な顔をして丸山は言った。

それから、1週間、主に猿島が佳奈の面倒を見ていた。
その間、丸山と坊ちゃんと呼ばれている金田が、たまに見に来て、散々、佳奈に暴言を吐き捨てていった。
「ねえ、あの娘、もう、やばいよ。
 あと数日も、持たないよ。」
「猿(えん)ちゃん、変な気をおこしてる?
 せっかく見つけたいい仕事、手放すつもり?
 丸山さん、言ってたでしょ、死んでも構わないって。
 なんか訳ありの娘だって。
余計なこと考えないで、言われた通り、世話だけしてればいいんだよ。」
「…。」
『猿ちゃん』と呼ばれた猿島真由美は、何も答えなかった。
「それに、俺、知ってるんだよ。
 猿ちゃん、あの娘に言われた以外に世話焼いてるでしょ。
 猿ちゃんが、世話してるから、ここまで持ってるんだよ。
 丸山さんに、ばれたら、半殺しの上、クビだよ。
 まあ、猿ちゃんが大人しくやられるようなタマじゃないのは知ってるけど。」
「猪、あんたも知ってて知らん顔してるから、同罪だよ。」
猿島が『猪』と呼んだ猪俣健二は、苦笑いしながら言った。
猪俣が言ったように、猿島は、丸山の陰に隠れ、佳奈の身体を拭いて清めたり、パンを小さくちぎって食べさせたりしていた。
「まあね。
 しかし、あの有名な『地獄の猿(えん)真(ま)』と呼ばれていたあんたが、甲斐甲斐しく女の子の世話を焼いてるとはな。
 でも、そんな形容詞が付いて呼ばれているのって、漫画や小説の世界だけかと思っていたから、実際にお目にかかって、びっくりしたよ。」
猪野が大げさに驚いたふりをして言った。
「何言ってんの。
 『全殺しの猪(いの)』と呼ばれていたのは、どこのどいつ?
 あたしも、そんな変な奴の顔が見たかったよ。
 まさか、それがこんなところで会うとはね。」
猿島も苦笑しながら言った。
「違いない。
 で、どうする?
 丸山も、あれ、結構、拳法の達人みたいだぜ。
 あと、他の連中も、場馴れしているというか、何か訓練を受けてるっぽいぜ。
 うちら、二人でも、さすがに無事じゃすまないぜ。」
猿島は、少し考え、小さく息を吐き、言った。
「ねえ、猪。
 うちら、随分、悪さしていたのは事実だけど、決して、やっちゃいけないことはしなかったじゃない。
 あんたのうわさも聞いてるよ。」
「まあ、随分、大怪我させ、死線を彷徨ったやつもいたけどな。」
「このまま、あの娘、死んじゃったら、人の尊厳も減ったくれもないよねえ。」
「まあね。
 さすがの俺も、あの二人のサディストぶりを見ていると虫唾が走るからな。
じゃあ、どうするの?」
「さあね。」
猿島は、はぐらかした言い方をしたが、すでに、何かを決めた顔をしていた。
それを見て、猪野は、苦笑いしながら肩をすぼめた。

その夜、春彦は、カレンから呼び出され、カレンの部屋にいた。
「お友達、まだ、見つからないの?」
佳奈が行方不明になって1か月あまり、何の情報もなく、春彦は悶々としていた。
カレンには、佳奈のことを、幼馴染の子で、行方不明になっていると告げていた。
春彦は、黙って頷くだけだった。
カレンもここ1カ月、たまに会っても、心ここにあらずで心配げな顔の春彦を見ていて、元気を出させようと声を掛けた次第だった。
その時、突然、春彦の携帯電話が鳴った。
春彦は、あまり携帯が好きではなく、ただの連絡用に、ごく一部の知り合いにしか教えていなかった。
が、着信番号は、今まで、春彦の見たことのない番号だった。
そういう電話は間違い電話で、いつもは電話に出ずに放置しておくのだったが、今回に限り、何か気になって電話に出た。
「もしもし」
春彦が言うと、少し間をおいてから女性の声が聞こえた。
電話の主は、女性だった。
「もしもし。」
「はい。」
春彦が答えると
「あなた、行方不明の女のひとを誰か知ってる?」
「えっ?」
「知り合いに行方不明の娘がいるかって、聞いてるんだ。」
女性は、ぶっきらぼうに尋ねた。
「佳奈のことか?
ならば、知ってる。
そこにいるのか。」
春彦は訝しがるように尋ねた。
(しまった、佳奈の名前を言ってしまった。何か悪いことの使われたら。)
と一瞬考えたが、それよりも電話の主の用件が聞きたかった。
「そう、佳奈さんていうのか。
 その佳奈さんのことで、大事な話がある。
 また、1時間後に掛けなおす。」
と、電話の主が言った先で、電話が切れた。
春彦は、身じろぎもせず、携帯を眺めながら、考えをまわしていた。
「どうしたの?」
カレンが心配そうに尋ねた。
春彦は、「はっ」と我に返り、矢継ぎ早に答えた。
「佳奈を知っているらしい人から電話があったんです。
 でも、1時間後に掛けなおすといって、すぐに切れたんです。」
「向こうの電話は?」
「非通知じゃなかったので、電話番号は残っています。
 でも、何か、こちらから掛けたらまずい気がします。
 ともかく、帰って、相手からの電話を待ちます。」
春彦は、珍しく興奮気味に話した。
「そうね、それが良いわ。」
「じゃあ、すみませんが帰ります。」
ばたばたと、春彦は帰り支度を整えて、カレンの部屋から飛び出した。
カレンは、マンションの玄関先で春彦を見送った。
そして、春彦が足早に去っていく後ろ姿を見ながら、呟いた。
「春彦君の運命の人は、きっと、その娘ね。
 無事に、会えるといいな。
 あーあ、これで、また一人ぼっちか。
 私にも、誰かいい人いないかなぁ。」
直感的にカレンは、もう春彦が自分の方には振り向かないことを悟った。
そのとき、風が後ろからカレンの横を通り抜け、春彦の方に流れていった。
その風がカレンの横を通り抜けていくとき、カレンは、そっと、髪を撫でられた気がした。
それは、とても居心地のいい、優しい感触だった。
カレンは、はっとした。
「どっちにしても、絶対に勝てないのね。」
カレンは、涙が頬を伝わるのを感じながら、笑顔でつぶやいた。
そう、まるで、春彦の横にやさしいそうな女性が並んで歩いているようにカレンには見えていた。

copyright © 2018 混線次元(はるかな物語) all rights reserved.Powered by FC2ブログ