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プロフィール

梅星

Author:梅星
社会人になっても、いつもいろいろな空想の世界を思い描いていました。
その中で、ずっと書きたかったお話(小説)をブログという世界を使って紹介させていただきます。
無理なく肩の力を抜いて続けていきたいと思いますので、楽しんでいただけたらと思います(毎週更新予定です)。
初めて読まれる方は、『あらすじ』も並行して読んでいただければ、読みやすいかと思います。
お楽しみください。

尚、文中の登場人物、会社等すべてフィクションです。


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DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
春彦は、いつものように会社から帰る道端で、女性がうずくまっているのに気が付いた。
「どうしたんですか?」
春彦は、その女性に近付き、声をかけた。
女性は、春彦の声に気が付き、顔を上げて春彦の顔を見た。
「ちょっと、貧血を起こしたみたいなんです。
少しじっとしていれば、そのうち治まると思うのですが……。」
女性は、貧血のためか、青白い顔で作り笑いを浮かべようとしていたが、額の辺りに脂汗をにじませていた。
「救急車か、タクシーでも呼びましょうか?」
春彦は、心配して聞いたが、女性は、顔を左右に振り言った。
「大丈夫、少し治まってきたし、家はすぐ近くなので。」
「じゃあ、家まで送っていきましょう。」
春彦は、そういって女性の荷物を持って、肩を貸し、女性をゆっくり立ち上るのを手伝った。
「すみません。」
女性は、すまなそうに言った。
二人は並んで歩き出し、だんだんと女性も具合が良くなってきたのか、歩く足取りもしっかりしてきた。
そこから10数分、歩いたところで、女性は立ち止まり目の前のマンションを指さした。
「あ、ここです。
 このマンションなんです。」
「あっ、そうですか。
 じゃあ、大丈夫ですね。」
春彦は、そういって、女性に荷物を返そうとした。
「あの、少し、休んで行きませんか。
お礼にお茶でも。」
「いや、そんな気遣いは不要です。」
春彦は、固辞して帰ろうとした。
女性は、慌てて春彦の腕をつかんだ。
「ひとり暮らしなんです。
なんだか、心細いので少しだけ寄っていただけませか。」
マンションのエントランスの明かりで、春彦は初めて女性をまじまじと見つめた。
春彦より年上だが、年のころは20代後半で、肩より少し長めのカールした黒髪、ぽっちゃりした下唇、どこかのモデルでも通りそうなきれいな顔立ちをしていた。
また、成熟した女性の香りがして、春彦は思わず見惚れてしまっていた。
「私、山藤カレンと言います。
 このマンションの306号に住んでいるんです。
 どうか、少しだけでも上がっていってもらえませんか?」
すがるようなカレン目に見つめられて、春彦はどきまぎして答えた。
「じゃあ、少しだけ。
 あっ、僕は立花春彦と言います。」
「あら、素敵な名前ですね。」
カレンは、ニコッとして言った。
二人はマンションエレベーターに乗り、カレンが3階のボタンを押した。
エレベーターは、機械的な音を上げ、ゆっくり上昇を始めた。
3階につきエレベーターが止まるときに、がだんと揺れた。
「きゃ。」
とカレンは小さな悲鳴を上げバランスを崩した。
春彦は、慌ててカレンの腕を取り、カレンの身体を支えた。
「ごめんなさい。
このエレベーター、いつも止まる際に揺れるの。
今日は、まだ、足元がふらついて…。」
カレンは微笑みながら言った。
「そうなんだ、でも、危ないですよね。」
春彦は、カレンを支えながらエレベーターから出た。
306と号室のボードが出ているドアの前で、カレンはバックから鍵をだし、部屋のカギを開けた。
カレンが先に玄関に入り、電気のスイッチを付けた。
「ちょっと、散らかっているけど、気にしないでね。」
カレンは室内履きのスリッパを並べて、春彦に入るように促した。
「じゃあ、お邪魔します。」
「あっ、入ったら、鍵をかけておいてくださいね。」
カレンの言ったセリフが不思議に聞こえた。
(普通、知らない人間を入れるのなら、鍵は開けっ放しでは?)
と春彦は思った。
「どうぞ、こっちに来て。」
春彦はリビングに通された。
1LDKの間取りで、ふすまが閉まっている先の部屋は、カレンの寝室だろう。
春彦は、ぼんやりと室内を見渡した。
リビングは、女性らしく小奇麗に片づけられていた。
(開かっているというのは、一種の社交辞令だな。)
と春彦は何気なく思った。
「やだ、そんなにジロジロ見渡さないで。」
カレンは、笑いながら言った。
「そこの椅子に座っていてね。
 今、何か飲み物を用意するから。
 ビールでいい?」
「え?
 いや、何もいりませんよ。
 すぐ、お暇しますから。」
「そんなこと言わないで。
 それとも、アルコールはだめなの?」
「いえ、そんなことありませんが…。」
「よかった。
 いつも一人で寂しかったから。」
カレンは、冷蔵庫から缶ビールを2本出してきた。
自分の家という安心感からか、カレンは、だいぶ打ち解けたような態度になっていた。
「でも、さっきまで貧血で具合が悪かったのでしょ?
 そんなのに、ビールを飲んで大丈夫なんですか?」
「大丈夫。
だって、もう我家なので、具合が悪くなってひっくり返っても大丈夫。
それに今日は最後にいいことがあったから。」
カレンは、悪戯っぽく笑って言った。
「じゃあ、かんぱーい。」
あっけらかんとして、さっぱりしているカレンに春彦は好感を持った。
「かんぱい。」
二人は、缶ビールを開けてビールを一口飲んだ。
「ああ、美味しい。
 今日は、特に美男子君と一緒だから。
 そうだ、おつまっみ、おつまっみと。」
カレンは楽しそうに言いながら、冷蔵庫の中からハムとチーズを出してきた。
「でも、立花さん、今日はありがとうございました。
 たまに、ああいうことになるのですが、その時は、一人でどうなっちゃうか不安だったの。
 そこで、声をかけていただき、すごく心強かったわ。」
テーブルに並べながら、カレンは春彦を見て改めてお礼をいった。
「いや、そんな。」
春彦は、少し照れていた。
「立花さんて、おいくつ?
 背広を着ているから、社会人かな?」
「ええ、今年23歳です。
 社会人1年目です。」
「あら、じゃあ、私が5つお姉さんだわ。
 年を感じるわね。」
「そんなことないですよ。」
春彦は『お姉さん』という言葉に、一瞬、悠美のことを思い出した。
悠美とカレンとでは、全くタイプが違い、悠美はどちらかというと本当の姉のようで、カレンは、成熟した女性と印象が全く違っていた。
「でも、カレンさんは独り暮らしなんですか?」
「そうなの。
 大学卒業して、こっちに出てきて。」
「彼氏とかは?」
(何を俺は聞いているんだろう)
と春彦は、すこし焦った。
そんな春彦のことを気にした様子なく、カレンは明るく答えた。
「彼氏とは半年前に別れちゃった。
 だから、今は彼氏募集中。
 春君、彼氏になる?」
「え?」
いきなり苗字ではなく下の名前で呼ばれ、しかも冗談ともとれないセリフを聞いて、春彦はますます焦った。
「あっ、ごめんなさい。
 ついつい、立花さんと話していると、なれなれしくなっちゃって。
 ごめんなさい、気を悪くしないでね。」
「いいですよ。
 なんか、俺良く言われるんです。
 ぼやっとしているから、ついいろいろ話してしまうって。
 人畜無害ってやつですかね。
 まあ、それだけですが。」
「あは、よかった。」
カレンは、ほっとしたように言った。
「それに、春でいいですよ。」
「じゃあ、私もカレンて呼んでね。」
春彦は、照れながら頷いた。
「でも、普段は知らない男性を部屋にあげたりしないのよ。
 春君だからかな。
 何か優しい感じがして、この人なら大丈夫って感じがして…。」
カレンは、なぜかはにかむように言った。
それから、1時間以上、他愛もない話で盛り上がり、缶ビールも2本ずつ空けていた。
春彦は、ふと時間が気になり腕時計を見て言った。
「いけない。
 少しだけっていったのに、もう1時間以上。
 カレンさん、そろそろ帰ります。」
「え~、もう?
 もっとゆっくりしていけばいいのに…。」
「あしたも仕事なんで。
 駄々を捏ねないでくださいね」
アルコールが少し回ってきたのか、駄々っ子のように不満を口にするカレンに笑いながら春彦は言った。
「じゃあ。」
春彦は、立ち上がった。
「仕方ないなぁ。
 じゃあ、お見送り。」
カレンもそう言って立ち上がり、春彦と玄関のドアの方へ歩き始めた。
が、何かに躓いたのか、ふらついたのか、「きゃ」という声で、体勢を崩したカレンを春彦は抱き留めた。
「大丈夫ですか?」
春彦は声をかけた。
「…。」
カレンは何も言わず、じっと春彦を見つめていた。
そして、体を入れ替え、春彦に抱きついた。
「えっ?」
春彦は急なことで驚いたが視線の先にカレンの顔が、そして何かを言っているなまめかしいその唇にくぎ付けになった。
そのカレンの唇が、春彦の唇に近付いてくる。
そして鼻腔にカレンの成熟した大人の女性の香りがいっぱいに入ってきて、春彦は取りつかれたように、カレンの唇に自分の唇を重ね、力強くカレンを抱きしめた。
カレンは、両手で春彦の首にかじりついた。
「そこの部屋に…。」
しばらく、そうしていたあと、カレンが春彦の耳に口を近づけ、喘ぐように言った。
カレンが言った部屋とは、春彦が寝室と思っていた部屋だった。
「うん。」
春彦は、返事をし、カレンを抱き上げた。
「きゃ」
カレンは、小さな悲鳴を上げ、春彦の首に回している腕の力を少しこめた。
春彦が、カレンを抱き上げながら部屋に入ると、そこにはきれいに片づけられているベッドルームだった。
春彦は、優しくカレンをベッドの上に横たえた。
カレンは、それでも首に回した手をほどかず、下から春彦を眺め、微笑んでいた。
そして、二人は自然と体を重ね合わせた。
春彦は、上からカレンを抱きしめながら、うなじに口づけをした。
カレンがぴくっと反応した。
春彦は、カレンのブラウスの上から胸をまさぐり、そして、ブラウスのボタンを下から外していった。
ブラウスとアンダーを外し、カレンは上半身裸になっていた。
春彦は、そのたわわな胸のつぼみに口をつけ、下で転がすように吸った。
カレンは、体を少し捻じり、小さなため息をついた。
春彦は、胸から腋まで下を這わせていった。
そして、空いている手をスカートの中に這わせた。
カレンはそれに呼応するように、脚を少し開いた。
パンティの上から、カレンの秘部を愛撫した後、カレンのスカートを脱がし、春彦も裸になった。
全裸になった二人は、お互いに激しく体を絡めあった。
そして、春彦の手がカレンの秘部を触ると、そこは、すでにじっとりを濡れていた。
「今日は、大丈夫なの。
 来て。」
カレンが、なまめかしい声で呟いた。
春彦は、体勢を立て直し、自分の固くなったものを、カレンの濡れた秘部に突き入れた。
「ゔっ」
カレンは、一瞬、声を上げたが、そのまま、春彦を受け入れた。
春彦は、女性経験は初めてではなかった。
長身ですらりとした体格、風貌もまずまずの好青年の春彦は、学生時代から女性から好感を得ていた。
しかし、春彦は、軟派ではなく、どちらかというと硬派で、女性とぺちゃくちゃ話をすることはあまりなく、それが逆に人気になっていた。
1、2人の女性と付き合ったことはあったが、春彦は決して心を許すことなく、付き合った女性はそれが苦痛で、各局、長続きはしなかった。
カレンもある程度男性経験があり、二人は、お互いの欲望を絡めあっていた。

「まったく、春君はすごいね。」
カレンは笑いながら上半身を起こし、春彦に向かって言った。
「そんなことないですよ。」
春彦は、少し照れながら答えた。
しかし、春彦は身体を重ねた後、いつものような虚無感にさいなまれていた。
春彦は、いつも、女性と身体を重ねた後、身体とは裏腹に、心が空しくなっていた。
そんな春彦のことを見通したように
「ねえ、知ってる?
男と女って、お互い運命の人がいるって。
 ほら、良く言うじゃない、赤い糸で繋がってるって。
 お互いが、その人で、カップルになればハッピーなんだけど、そういうカップルって少ないそうよ。
 片方が運命の人と感じ、もう片方がそうでなかったら、運命の人と感じなかった方は、凄く空しくなるって。」
「…」
春彦は、カレンが何を言っているのか理解できなかった。
(春君にとって、私は運命の人じゃないな。
私、春君だったらいいなと思ったんだけど。)
カレンは、春彦を見ながら思った。
「私、この前、彼氏と別れてから、しばらく一人でのびのびしていたいんだ。
束縛されるのも、当分、ごめんなの。
 でも、春君とは、また、会いたいな。
 たまに、連絡してもいい?」
「えっ?
 ああ、全然かまわないですよ。
 僕も、カレンさんと話をするのが楽しいし。」
「よかった。」
悪戯っぽくカレンは春彦の鼻にキスをした。
(ようは、恋人ではなく、ちょっと深い友達ってことかな。
それはそれで、構わないな。)
春彦は、カレンの言ったことをそう理解した。

カレンと別れ、家に帰ったのはしっかり深夜になっていた。
ドアを開けると、リビングの方から「おかえりー」という舞の声が聞こえた。
「ただいま。」
春彦は、そういいながらリビングに入っていくと、お酒を飲みながら、舞がニヤニヤしていた。
「こんな時間まで、女の子と、お楽しみかな?
 佳奈ちゃんに言いつけてやるよ。」
「佳奈は、関係ないだろ。
それより、そんな言い方、エロ爺みたいだよ。」
「そうかなぁ?
 まあ、いいでしょ。
 それより、どんな娘?
 お付き合いしてるの?」
「なんでさ。」
「私の鼻を侮るなよー。
 春の身体から。若い女の子、女の子じゃないな、成熟な大人の女性の匂いがするよ。」
「勝手に言ってな。
 明日も仕事だから、風呂に入って寝るよ。
 そうそう、ご飯は食べてきたから。」
「はいはい。」
舞はニヤニヤ顔をそのままに、手を振っていた。
春彦は、素っ気なく自分の部屋に戻っていったが、内心、舞に見透かされているようで冷や冷やものだった。
(しかし、凄いな。
 さすが、母さんだな。)
反面、まぐれでも言い当てた舞に感心することしきりだった。

それから、数カ月経ち12月に入ったある日のこと、佳奈は自宅のある駅の改札を出たところだった。
「まったく春ったら、最近ちっとも連絡をくれないで。
 最近、墓参りにも行ってないし…。」
佳奈は、会社帰りぶつぶつと独り言を言いながら、駅近くの商店街を歩いていた。
佳奈と春彦はお互い社会人1年目で、仕事に慣れるべく、忙しく、ここ数カ月も全く連絡を取り合っていなかった。
でも、佳奈は、何かにつけて春彦のことを思っていた。
ふっと、遠くを見渡すと、佳奈の視線の中に春彦が飛び込んできた。
「あっ、春彦だ。
 全然連絡くれないで、ちょっととっちめてやろうかな。」
言葉とは裏腹に佳奈は春彦に久々に逢えた嬉しさで、笑顔になっていた。
そして、春彦に近付いていき、声を掛けようとした瞬間、春彦の隣にきれいな女性がいるのを気が付いた。
春彦は、その日、カレンの買い物に付き合っている最中だった。
楽しそうに語りながら歩いている二人を見て、佳奈は、声もかけずに立ち止まった。
そして、そっと後ずさりして二人から離れ、踵を返して二人から遠ざかるように、違う路地に入っていった。
「春と歩いていたきれいな女の人、誰なんだろう。
 春の彼女?恋人?」
そんなことを考えながら、佳奈は心が締め付けられる思いがした。
だんだんと歩くスピードが遅くなり、うつむき気味に歩いていた佳奈の瞳から涙が一粒流れた。
「しかたないよね。
 春は、女の人にもてるから。」
佳奈は、その涙を手で拭いながら、つぶやいた。
そして、ふと周りを見渡すと、あまり通ったことのない道だったことに気が付いた。
「いけない、いけない、こんなところまで来て。
 ここら辺は、街頭もなく危ないんだっけ」
と、十字路を横断しようとした時、無灯火の車がスピードを緩めることなく、迫ってくるのが見えた。
「なに?」
よける間もなく、佳奈はその車に跳ね飛ばされた。
激しい衝撃の中、佳奈の意識は暗闇に吸い込まれていった。
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DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
佳奈が、事故に逢った日、深夜になっても、佳奈が帰ってこないのを茂子は心配で居ても立ってもいられなかった。
佳奈は、遅くなるときは、きちんと事前に連絡を入れるのが常だった。
一樹が、夜遅く帰宅し、佳奈が帰っていないこと、佳奈の携帯がかけても圏外を知らせるメッセージしか出ないことを茂子から聞き、きっと何か大事な用事が出来て、その内連絡があると茂子を落ち着かせていた。
しかし、そう茂子をなだめながら、一樹自身、心配で堪らなかった。
二人は、結局一睡もせずに、佳奈からの連絡を待っていたが、朝になっても連絡が取れず、早々に警察に捜査願いを出した。
舞は、茂子から佳奈が帰宅していないことを聞き、急いで茂子の家を訪ねた。
「どうしたの?
 佳奈ちゃん、帰ってこないの?」
「そうなの、電話しても圏外だし、それに無断外泊なんて今までないのよ。」
茂子は、すっかり憔悴していた。
「そうよね、佳奈ちゃん、いい娘だからそんなことしないもんね。
 何か事件に…。」
事件に巻き込まれたのではと言おうとして、舞は茂子のことを考え途中で言葉を飲み込んだ。
「なにか、心当たりはないの?」
「うん。
 さっき、佳奈の勤め先に電話したんだけど、やっぱり、連絡がないそうで。
 特に変わった様子もなかったって。
 もう、どうしたらいいのか。」
茂子は、とうとう泣き始めた。
「大丈夫、きっと無事に帰ってくるわよ。
 あんなに良い娘なんだから。」
慰めるセリフに考えながら、舞は、茂子の背中をさすって慰めていた。

舞は、帰宅してから春彦に佳奈が行方不明になっていることを、その経緯を含め、説明した。
佳奈が帰っていないことは、朝、茂子から連絡があったのだが、春彦は会社に出た後だったので、春彦の携帯に、帰っていないことだけメッセージを入れておいた。
もしかしたら、春彦が何か知っているのではないかと思ってだが、当然、春彦も寝耳に水のことだった。
そして、会社が引けてから足早に帰宅し、舞から説明を聞いていた。
「それで、今は、警察が事件と事故の両方から捜査してるそうよ。」
「誘拐とかじゃないの?」
「うん、そんな電話もなく、そうじゃないみたい。」
「佳奈は、真面目で固いから、夜も遅くにならないし、滅多に外泊もしないもんなぁ。」
「そうなのよね。
 ともかく、無事で早く帰ってきてほしいわ。」
舞も佳奈が小さい頃から、ずっと見てきたので、心配で仕方ないという顔をしていた。
「大丈夫だよ。
 どっからか、ひょっこり帰ってくるよ。」
春彦は、そんなことをする佳奈ではないことをわかっていたが、心配を打ち消すように、軽口を言うことしかできなかった。
春彦は、佳奈が帰ってこないと聞いてから、ちょくちょく会社でも佳奈の携帯に電話をかけていたのだが、そのたびに、圏外メッセージの返事を聞き、落胆していた。
そんな皆の心配をよそに、時間だけが経って行った。

(ここは、どこ?
 体が痛くて、思うように動けない。)
佳奈は、何が何だか理解が出来なかった。
なぜ、こんな部屋のベッドの上にいるのか、なぜ、体中が痛く、また、体が特に足の感覚がないのか理解できなかった。
苦痛に呻きながら周りを見渡そうとした時、足元の方から声がした。
「おや、気が付きましたか。」
声の主は、佳奈の目が届く範囲の中に入ってきた。
見た目、年配で白髪の紳士のような感じで、まるで執事のようにタキシードのような洋服を身にまとっていた。
佳奈は、苦痛をこらえながら、何とか話をしようとした。
「こ…こは、ど…こ…です…か?」
何とか絞り出すように声を出した。
その白髪の執事のような男は、嫌なものを見ているような、不快そうな声で答えた。
「まあ、よくお目覚めになりましたね。
 あのまま、お亡くなりになるかと思ったのですが。
 失礼、私、執事の丸山と申します。
 あなた様は、お坊ちゃまの車と交通事故を起こされ、ここに運び込まれたのですよ。」
「…。」
佳奈は、少しずつ状況を思い出していた。
(そうだ、夜、買い物帰りに青信号の横断歩道を渡っていたら、すごいスピードの車が向かってきて、凄い衝撃と痛みで…。)
「少し思い出していられますか。
 あなた様が、のんきに横断歩道を渡っていて、お坊ちゃまが、気が付いた時は、ブレーキが間に合わず、あなた様を車に引っかけてしまったのです。
 幸い、人通りもありませんでしたので、あなた様を車に、お乗せして、お乗せしてと言っても、トランクルームにお入れして、この別荘まで運びこんだ次第です。
 まあ、おかげで車は傷がつくわ、トランクルームは汚れるわ、結局、お坊ちゃまのお車は廃車にせざるを得ませんでした。
まったく、ろくでもない方ですね。
あんなところ歩かなかったら、こんな面倒にならなかったのに。」
「?」
佳奈は丸山という男が何を言っているのか理解が出来なかった。
「連絡を頂いて、別荘の手配だとか、医者の手配だとか、まあ、手数がかかりました。
 そうそう、お坊ちゃまと相談し、何かに使えるかと、我家の嘱託医に診せたら、外傷は奇跡的に、そんなひどくなく、2~3か月すれば、だいぶ良くなるみたいです。
なので、あなた様の使い道については、ゆっくりと考えるということで。
あとで、気が付いたということで、医者に診てもらいます。
では、また、後ほど。」
丸山は、慇懃に頭を下げて、部屋からさっさと出て行った。
佳奈は、痛みをこらえながら、自分の状況を確認しようとした。
確かに、ベッドの上だが、拘束着を着せられているのか、体を動かすことが出来なかった。
そのうち、気が遠くなり、暗闇に落ちていった。

「もしもし、菅井佳奈さん、聞こえますか?」
佳奈は呼ばれる声で目を覚ました。
「私は、この家に仕えている医者の小菅と言います。
 いやあ、あなた様は運が良いですね。
 スピードを出していたお坊ちゃまの車に引っかけられたのですが、外傷があるくらいで、内臓破裂だとか命に係わることがないなんて、何て奇跡的なんでしょう。」
佳奈は、少し頭がはっきりしてきて、先程執事と名乗る男との会話を思い出していた。
(そうだ、後で医者を呼ぶと言っていたわ。
 この人がそうなのかしら。
でも、さっきの人と同じで、感じが悪い…。)
「じゃあ、小山君、拘束着を緩めて。」
「はい、小菅先生」
医師の問いかけに答えた女性の声がしたほうを、佳奈は見た。
そこには、中年に近い、化粧も濃く、きつい顔をした看護婦がいた。
その看護婦は、小山と呼ばれ、おそらく医者の専属の看護婦だろうと、佳奈はぼんやりした頭で思った。
「さあ、先生の回診ですから、とっとと協力してください。」
小山と呼ばれている看護婦は、素っ気なくいいながら、乱暴に佳奈につけられている拘束着を緩め始めた。
佳奈は、じっとしていても体中が痛いのに、動かされることで全身火が付いたような痛みを覚え、声にならない悲鳴と顔を苦痛でにじませた。
「少しくらい痛いのは我慢しなさい。」
きつい口調で小山は言い捨てた。
その後、小菅と呼ばれた医者が佳奈の怪我の確認で、いろいろと問答しながら、頭から順に診ていった。
そして脚になった時に、思わず顔を曇らせた。
「足を動かして。」
「足に何か感じるか?」
いろいろと聞かれたり、触られたりされてはいるみたいだったが、佳奈には一切、両脚の感覚がなかった。
小菅は、しばらく考え事をするように、腕を組んで黙っていた。
そして、やおら目を開けてため息をついて小山に向かって
「ちょっと、席を外すから、その間でも、オムツを換えておきなさい。」
「はい、先生。」
二人の会話を聞いて、思わず佳奈は悲鳴を上げた。
「ひっ、おむつ?
 私、おむつさせられているの?」
佳奈は、恥ずかしさと屈辱感で、何が何だか分からなくなっていた。
「じゃあ、頼んだよ。」
小菅は、そう言い残して部屋から出ていった。
小山は、意地悪そうに笑いながら佳奈に近付いてきた。
「あなた、1週間も目を開けなかったんだから当たり前でしょ。
おしっことか垂れ流されたら汚くてたまらないでしょ。」
小山は、残忍そうな言い方をし、佳奈の身体にかかっていたタオルをはぎ取った。
佳奈は、ガウンのような診査着を着せられていた。
その診査着を小山は無表情に下からまくり上げ、佳奈のさせられているオムツをあらわにした。
佳奈は、精一杯、抗ったが体に走る激痛と、小山の力に屈するしかなかった。
しばらくして、小菅と丸山が部屋に入ってきた。
佳奈はぐったりと、また、涙をこらえていた。
丸山は、そんな佳奈を見下ろして、苦々しそうに言った。
「もう、先生に聞いたら、貴女の両脚、麻痺してるんですって。
 まったく、傷が治ったら、少しは楽しませてもらって、そのあと売り払おうと坊ちゃんと言っていたのに。
 本当に、何から何まで使えないんでしょうか。」
「帰して…。
家に帰してください。」
消え入るような声で佳奈は丸山に嘆願した。
「それはできない相談です。
 そんなことして、事故が明るみに出ると、坊ちゃん、いいえ、この金田家に傷がつきます。」
「どうして…?
何も言わないから帰してください。」
「頭が悪い子ですね。
 そんなことは、絶対にできません。
 それより、どうやって始末するかですね。」
「…。」
佳奈は、痛みと激しい動揺とで気が遠くなっていった。
その遠くなっていく意識の中で、丸山と小菅が話す声が聞こえた。
「先生、本当に脚はだめなんですか?」
「おそらく、事故の衝撃でどこかの神経が切れたかで、両脚が麻痺していると思われる。
 リハビリしても動けるようになるかどうかは、わからない。」
「やれやれ、とんだお荷物を、背負い込んでしまったということですね。
 あとで、坊ちゃんと相談しなければ。」

それから4~5日。
佳奈は、治療もろくにされず、たまに小山が、佳奈が騒いだりしないように、拘束着のチェックと強い鎮痛剤を打ちに来ていた。
そのせいか、佳奈は1日中意識がもうろうとしていた。
食事は、点滴が中心で、たまに菓子パンが与えられたが、佳奈には食べる元気がなかった。
また、両脚は、相変らず自分の足ではないみたいに感覚がなかった。
もうろうとしていると、ドアが開き、男が3人入ってきた。
そのうち二人は、執事の丸山と医師の小菅だということが佳奈には分かったが、もう一人は初めて見る男だった。
男は、小太りで脂ぎった顔のいかにも残忍そうな感じだった。
「うっ!
 何だ、この匂いは。
 臭ぇえなぁ。」
「まあ、坊ちゃん。
 仕方ないですよ。
 運び込んでから今まで、シャワーも浴びさせてないんですから。」
丸山に坊ちゃんと呼ばれた男は、大げさに鼻をつまみ
「こんなの、遊びにも何にも使えないんだろう。
 もういいよ、地下室にでも突っ込んでおきな。
 そのうち、弱って死んだら、どっかに捨てればいいから。」
「わかりました、坊ちゃん。」
その男は、佳奈に近付き、佳奈の髪の毛を乱暴につかみ、顔を上げさせ罵倒した。
「お前なんか人間じゃなくて、ただ臭い豚だ。
 俺の車にぶつかりやがって、その汚い体にぶつけられて、車を1台、台無しにされたし、売り物にもなんにもなりゃしない。
 本当に、クズだ。
 ああ、臭ぇえ。」
佳奈は、意識がもうろうとしていたが、自分が何を言われているのか、このようにした張本人が目の前にいるのに、何も言えず、何もできずにいる悔しさで涙が出てきていた。
「こいつ、何泣いてんだ。
 ああ、気色悪い。
 丸山、早く地下室に放り込んどけ。」
「わかりました。」
その日のうちに、佳奈は屋敷の地下室に移された。
地下室は、窓も何もなく、ただマットレスが置いてあるだけの殺風景な部屋だった。
そこに、佳奈は、拘束着を着せられたまま、寝かされた。
「小山君、今日から、こいつには例の薬を打つようにね。」
「え?」
「どうせ、使いものにならんのだから、騒いだりできないようにだよ。」
小菅は、苦々しい顔をして、小山に命じた。
(あの薬、麻薬じゃないの。
 しかも、強烈な…。
 あんなの打ったら、廃人よ。)
「小山、わかったな。」
躊躇して返事をしない小山に、小菅はどなりつけた。
「はい…、わかりました。」
小山は、言うことを聞くしかないと、観念して返事をした。
それから、1週間、何回か金田は、丸山と一緒に佳奈のところに顔を出し、その都度、意識のもうろうとしている佳奈に『汚い』『臭い』の罵詈雑言を浴びせていた。
(このサディストどもが…)
二人に付き添っている小山は心の中で、金田と丸山を罵っていた。

「おい、そこの二人。
 ちょっとこい。」
丸山が3か月前に雇った使用人の男女を呼びつけた。
「猪俣と猿島だったな。」
猪俣と呼ばれた男は、猪俣健二。
小柄だががっちりした体形で、どことなく憎めない顔つきをしている。
猿島と呼ばれた女は、猿島真由美。
長身で長い黒髪のほっそりした体形で、切れ長の目が冷たい印象に拍車をかけていた。
二人は、この家の使用人募集の広告をみて応募し、頃を同じく採用された使用人だった。
しかし、二人は若い頃、おのおのグループを率いて、ギャングのようなことをしていた。
なので、お互い、顔やうわさは知っていたが、こんなところで会うのは初めてだった。
使用人としての募集であったが、腕っぷしが強いことという条件が付いていたことで、胡散臭いと感じていたが、待遇が良いのと、なかなかまともな仕事に就けない現実から、二人はここで勤め始めていた。
仕事は、丸山配下の部下たちの世話が主で、掃除に食事の世話、たまに、格闘技の練習相手をするというかさせられていた。
格闘技と言っても、空手や柔道などの一般的なものではなく、殴る蹴る、投げる、関節技など相手を完膚なきまでに倒す実践的な総合格闘技だった。
なので、本気でやられると猿島も猪俣も怪我をし、使えなくなるので、練習相手と言っても随分手加減されていた。
絞め技で、何度か落とされはしていたが、二人とも、グループのリーダーでかなり、腕がたっていたので、ワザとやられたふりや、痛がるふりをして、ばれないようにかわしていた。
しかし、丸山の部下たちは傭兵のように特殊な訓練を受けていたので力の差があり、抵抗すると命を落としかねないので気を緩めず、うまく立ち回るしかなかった。

「何か?」
猪俣が尋ねた。
「お前たち、随分
この家になれたようだな。
 他の奴らにも評判がいいし。」
「ありがとうございます。」
猿島が答えた。
猿島は、どちらかというと美形で、冷たい印象だがその美貌に拍車をかけていた。
丸山は、ねっとりした目で猿島を眺めまわしながら言った。
「で、お前たち二人は信頼がおけそうなので、ちょっとした用事をお願いする。
 いっしょに、来い。」
丸山は二人を引き連れて、佳奈が監禁されている地下の部屋に向かっていき、その部屋のドアを開けて、二人に入るように促した。
二人は、言われるままに部屋に入ると、むっとする異臭が鼻についた。
部屋の壁際に、マットレスが置かれ、そこに、拘束着を着せられて寝かされている佳奈がいた。
臭いは、佳奈の方から漂ってきていた。
佳奈は、怪しい薬のせいか、生気もなくぼやっとした顔で寝ころんでいた。
「匂いが、たまらんな。
 だんだんひどくなってくる。」
丸山は、額にしわを寄せて、あからさまに嫌な顔をしていた。
「用事は、二人に、こいつを定期的に見て状況を報告してほしいということだ。
 見ての通り、訳ありの人間で、拘束着を着せて、薬を打たないと、暴れてたいへん狂暴な娘だ。」
「娘?
 女か。」
猿島が、ぼそっとつぶやいた。
拘束着を着させられてぼさぼさの髪の毛で顔が良く見えず、言われるまでなかなか性別までわからなかった。
「重い病気もあって、もう、長くはないと医者からも見捨てられている。
 1日一回、薬と栄養剤の点滴と、菓子パンを食べさせているんだが。
 まあ、はっきり言って、お荷物で、早く逝ってほしいんだが。
 なので、たまに生きているか様子を見てほしいのと、そうだ、猿島は女だから女の扱いはわかるよな。」
丸山は、嫌らしい顔をしていった。
「あとは、余計なことは一切せずに、それと、このことは、絶対に外部には漏らすなよ。
 漏らしたら、私の部下が、お前たちを生きてこの家から出られなくするからな。」
残忍な顔をして丸山は言った。

それから、1週間、主に猿島が佳奈の面倒を見ていた。
その間、丸山と坊ちゃんと呼ばれている金田が、たまに見に来て、散々、佳奈に暴言を吐き捨てていった。
「ねえ、あの娘、もう、やばいよ。
 あと数日も、持たないよ。」
「猿(えん)ちゃん、変な気をおこしてる?
 せっかく見つけたいい仕事、手放すつもり?
 丸山さん、言ってたでしょ、死んでも構わないって。
 なんか訳ありの娘だって。
余計なこと考えないで、言われた通り、世話だけしてればいいんだよ。」
「…。」
『猿ちゃん』と呼ばれた猿島真由美は、何も答えなかった。
「それに、俺、知ってるんだよ。
 猿ちゃん、あの娘に言われた以外に世話焼いてるでしょ。
 猿ちゃんが、世話してるから、ここまで持ってるんだよ。
 丸山さんに、ばれたら、半殺しの上、クビだよ。
 まあ、猿ちゃんが大人しくやられるようなタマじゃないのは知ってるけど。」
「猪、あんたも知ってて知らん顔してるから、同罪だよ。」
猿島が『猪』と呼んだ猪俣健二は、苦笑いしながら言った。
猪俣が言ったように、猿島は、丸山の陰に隠れ、佳奈の身体を拭いて清めたり、パンを小さくちぎって食べさせたりしていた。
「まあね。
 しかし、あの有名な『地獄の猿(えん)真(ま)』と呼ばれていたあんたが、甲斐甲斐しく女の子の世話を焼いてるとはな。
 でも、そんな形容詞が付いて呼ばれているのって、漫画や小説の世界だけかと思っていたから、実際にお目にかかって、びっくりしたよ。」
猪野が大げさに驚いたふりをして言った。
「何言ってんの。
 『全殺しの猪(いの)』と呼ばれていたのは、どこのどいつ?
 あたしも、そんな変な奴の顔が見たかったよ。
 まさか、それがこんなところで会うとはね。」
猿島も苦笑しながら言った。
「違いない。
 で、どうする?
 丸山も、あれ、結構、拳法の達人みたいだぜ。
 あと、他の連中も、場馴れしているというか、何か訓練を受けてるっぽいぜ。
 うちら、二人でも、さすがに無事じゃすまないぜ。」
猿島は、少し考え、小さく息を吐き、言った。
「ねえ、猪。
 うちら、随分、悪さしていたのは事実だけど、決して、やっちゃいけないことはしなかったじゃない。
 あんたのうわさも聞いてるよ。」
「まあ、随分、大怪我させ、死線を彷徨ったやつもいたけどな。」
「このまま、あの娘、死んじゃったら、人の尊厳も減ったくれもないよねえ。」
「まあね。
 さすがの俺も、あの二人のサディストぶりを見ていると虫唾が走るからな。
じゃあ、どうするの?」
「さあね。」
猿島は、はぐらかした言い方をしたが、すでに、何かを決めた顔をしていた。
それを見て、猪野は、苦笑いしながら肩をすぼめた。

その夜、春彦は、カレンから呼び出され、カレンの部屋にいた。
「お友達、まだ、見つからないの?」
佳奈が行方不明になって1か月あまり、何の情報もなく、春彦は悶々としていた。
カレンには、佳奈のことを、幼馴染の子で、行方不明になっていると告げていた。
春彦は、黙って頷くだけだった。
カレンもここ1カ月、たまに会っても、心ここにあらずで心配げな顔の春彦を見ていて、元気を出させようと声を掛けた次第だった。
その時、突然、春彦の携帯電話が鳴った。
春彦は、あまり携帯が好きではなく、ただの連絡用に、ごく一部の知り合いにしか教えていなかった。
が、着信番号は、今まで、春彦の見たことのない番号だった。
そういう電話は間違い電話で、いつもは電話に出ずに放置しておくのだったが、今回に限り、何か気になって電話に出た。
「もしもし」
春彦が言うと、少し間をおいてから女性の声が聞こえた。
電話の主は、女性だった。
「もしもし。」
「はい。」
春彦が答えると
「あなた、行方不明の女のひとを誰か知ってる?」
「えっ?」
「知り合いに行方不明の娘がいるかって、聞いてるんだ。」
女性は、ぶっきらぼうに尋ねた。
「佳奈のことか?
ならば、知ってる。
そこにいるのか。」
春彦は訝しがるように尋ねた。
(しまった、佳奈の名前を言ってしまった。何か悪いことの使われたら。)
と一瞬考えたが、それよりも電話の主の用件が聞きたかった。
「そう、佳奈さんていうのか。
 その佳奈さんのことで、大事な話がある。
 また、1時間後に掛けなおす。」
と、電話の主が言った先で、電話が切れた。
春彦は、身じろぎもせず、携帯を眺めながら、考えをまわしていた。
「どうしたの?」
カレンが心配そうに尋ねた。
春彦は、「はっ」と我に返り、矢継ぎ早に答えた。
「佳奈を知っているらしい人から電話があったんです。
 でも、1時間後に掛けなおすといって、すぐに切れたんです。」
「向こうの電話は?」
「非通知じゃなかったので、電話番号は残っています。
 でも、何か、こちらから掛けたらまずい気がします。
 ともかく、帰って、相手からの電話を待ちます。」
春彦は、珍しく興奮気味に話した。
「そうね、それが良いわ。」
「じゃあ、すみませんが帰ります。」
ばたばたと、春彦は帰り支度を整えて、カレンの部屋から飛び出した。
カレンは、マンションの玄関先で春彦を見送った。
そして、春彦が足早に去っていく後ろ姿を見ながら、呟いた。
「春彦君の運命の人は、きっと、その娘ね。
 無事に、会えるといいな。
 あーあ、これで、また一人ぼっちか。
 私にも、誰かいい人いないかなぁ。」
直感的にカレンは、もう春彦が自分の方には振り向かないことを悟った。
そのとき、風が後ろからカレンの横を通り抜け、春彦の方に流れていった。
その風がカレンの横を通り抜けていくとき、カレンは、そっと、髪を撫でられた気がした。
それは、とても居心地のいい、優しい感触だった。
カレンは、はっとした。
「どっちにしても、絶対に勝てないのね。」
カレンは、涙が頬を伝わるのを感じながら、笑顔でつぶやいた。
そう、まるで、春彦の横にやさしいそうな女性が並んで歩いているようにカレンには見えていた。
DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
その頃、猿島は、誰かの気配を感じ、携帯電話を急いで切って、服に隠した。
「あれ?猿ちゃん、携帯電話は禁止だよ。」
声の主は猪俣だった。
猿島は、ほっと安堵のため息を漏らした。
「別に、いいじゃん。
 あんたには、関係ないよ。」
とつっけんどんに猪俣に言った。
猪俣は、そんな猿島のセリフを聞き流すように言った。
「そうだね、関係ないもんな。
 こっちまで、とばっちり食ったら、くわばらくわばら。」
「だから、なんだっていうの?」
「いや、独り言だけど、明日、夕方の17時ごろが怖いお兄さんたちが手薄になるそうだよ。
 なんだか、お坊ちゃまが、どこかに行くとかで、その警護で半数のお兄さんたちが屋敷をでるそうだよ。
まあ、5人くらい残るし、いつ戻ってくるかわからないからね。
でも、チャンスはその時くらいだろうね。」
猿島は、じっと、猪俣を見つめていた。
「おいおい、信じるも信じないも勝手だがね。
ここのお兄さんたちは、プロだから、いくらうちら二人でも厳しいことは確かだよ。
 当然、素人さんには、もっとだけどね。」
猿島は、ため息をつき、小さな笑顔を猪俣に向けた。
「ああ、あんたのことは信じてるから。
 ありがとね。」
「おっ、嬉しいね。
 初めて、猿ちゃんに感謝された。
 じゃあ、うまく行ったら、猿ちゃん、1回、お願いね。」
「考えておくわ。」
猪俣は、猿島の返事ににやりと笑みを浮べたが、すぐに真顔になった。
「ところで、あの娘、もうやばいって、どうしてわかったの?
まあ見ればわかるけど。」
「小山って看護婦がいるだろ?」
「ああ、あのきつい顔して、キツネみたいに目が吊りあがってる姉ちゃんだろ。」
そう言って猪俣は指で目の端の持ち上げて見せた。
「その小山がさ、あたしに教えてくれたんだ。
 衰弱がひどいので、あと2~3日がいいところだろうって。」
「えっ?
 あの小山が?
 あいつら、あの娘を始末したがってたじゃん。」
「うーん、でも、小山って見かけほど悪い奴じゃなさそうなんだ。
あの部屋の匂いも、半分作り物で、臭いにおい液体をあの娘の身体に掛けたり仕手いるみたいなんだ。」
「ええ?
 何でそんなことを。」
「いや、あの黒服の連中、女なら死体とだってもやっちゃうらしいんだよ。
 だから、用なしになったから、真っ先に身体を狙われちゃうんだってさ。
 それで、その気を起こさせないような成分を混ぜた液体を撒いているみたいなんだ。」
「えっ、そうなんだ。」
猪俣は意外そうな顔をして言った。
「確かに、私が世話している時、2、3回男たちがのぞきに来て、鼻を押さえて帰っていったんだ。」
「ふーん、意外だな。」
「まあ、それだけじゃないけどね。
 ただ、あれは、あちら側の人間だから、ここまでらしいけど。」
「複雑だな。」
「そうかぁ。」
猿島は何となく小山の気持ちがわかったような気がしていた。
「じゃあ、もう少し細かな段取りと行きましょうか。」
猪俣は、いくら考えてもわからないことより、現実的なことに話を変えた。
猿島もそれ以上は言わず、佳奈を助け出す段取りに集中していった。

春彦は、足早に帰宅した。
リビングでは、舞がくつろぎながらお酒を飲んでいた。
舞は、春彦がいつもと違い、どこか焦りながら帰ってきたのを見て軽口を言った。
「あれ、春?
 今日は、女のところじゃなかったの?」
春彦は、軽口に何の反応もせず、手短に先程掛かってきた謎の電話のことを舞に言った。
舞も、話を聞きながら徐々に険しい顔になっていた。
そして話しが終わるや否や、春彦の携帯電話が鳴り始めた。
春彦が携帯を見ると、先程と同じ番号からの電話だった。
「もしもし」
春彦が電話に出ると、先程の女性の声がした。
「まず、手短に状況を話すと、あんたが佳奈っていった娘だけど、この屋敷に監禁されていて、身体がとても弱ってる。
医者の話しじゃ、このままじゃ、2、3日持つかどうかの状態だよ。」
「怪我、してるのか?」
「経緯は、わからないけど、怪我もしてるし、ともかく、監禁されている状況が最悪で弱り切ってる。
動けないようにされて、何か、やばい薬を打たれているし、毎日、薬と点滴だけ。
早くしないと、本当にやばいよ。」
「あんたは?」
「私かい?
 私はこの屋敷の使用人の猿島っていうんだ。
 ところで、あんたは?」
「立花だ。
佳奈から聞いていないのか?」
「さっきも言ったように、あの娘、薬を打たれていて、一日中朦朧としてるのさ。
 私は、あの娘の世話を命じられて、世話していながら、こっそり、この電話番号を聞き出したからかけたんだ。
 まあ、信じるも、信じないも、あんた次第だけどね。」
「……。」
春彦は鵜呑みにしていいのか考えこんでいた。
「そうそう、お姉ちゃんがいるんだって?
 『ユミ』とか言う。
 あの娘、うなされながら名前を呼んでいたよ。」
「え?」
その一言を聞いて、春彦は総毛だった。
「すまない、信じる。
 信じるから、どこに監禁されているのかを教えてくれ。
 すぐに、迎えに行くから。」
舞は、電話の話を聞きながら、熱心に、その会話をメモっていた。
猿島が、監禁されている場所のこと、住所を言うたびに春彦は復唱し、それを舞が必死に書き写していた。
「で、やばいのは、この屋敷の持ち主で、どうも、普通じゃないんだよ。
 なんか日本の警察でも迂闊には入れないみたいなんだ。
 後で、確認しておくれ。
 で、傭兵みたいな腕っぷしのたつ、プロの軍団を警護に雇っているから。
 明日の17時に、唯一、手薄になるから、その時を狙わないとだめだよ。
 ところで、あんたは、腕は?」
「普通の会社員だ。」
「まあ、そうだよね。
 腕の立つ手数を揃えられたらいいんだけど。
 手薄になると言っても5,6人は残るみたいだから。
 私ともう一人いるけど、それで太刀打ちできるか厳しいところさ。」
「わかった、それは、何とかする。」
「じゃあ、長電話すると、やつらに感づかれるから、切るよ。
段取りは、わかったね。」
「ああ。」
「じゃあ、覚悟しておいでね。」
と猿島はいい残し、電話を切った。
佳奈を助け出す段取りは、次の通り。
17時に猿島たちが屋敷の裏口を開け、それを待って、猿島たちと一緒に屋敷に入る。
佳奈の監禁されている部屋に案内するから、佳奈を連れて逃げ出す。
相手は、傭兵の様に訓練されている集団だから、極力、争いはせずに逃げること。
また、佳奈は動かないので、担げる担架のようなものを用意するとのことだった。
春彦が、顔を上げると、真剣な顔をした舞が立ち上がっていた。
「春、これから茂子のところに行くよ。
 一樹さん、警察関係に知り合いがいるって言っていたから、何かわかるかもしれないよ。」
「わかった。
 じゃあ、車を回してくるから、母さんも早く用意して。」
「用意なんてないさ。
行くよ。」
2人は、あわただしく、車に乗り込んだ。
舞は、茂子の家に着くまでの間に、車から電話をかけ、状況を簡単に説明し、これから行くと伝えた。
電話口で興奮した茂子の騒ぐ声が電話から漏れ聞こえていた。
茂子の家に着くと、茂子と一樹が興奮した面持ちで舞と春彦を迎えた。
「佳奈が、見つかったの?
 どこにいるの?
 元気なの?」
茂子は、矢継ぎ早に舞に質問を浴びせた。
「茂子、少し落ち着いて。
 立花さん、詳しく教えてくれませんか。」
一樹は、落ち着いて舞からすべてを聞き出そうとした。
舞は、茂子と一樹に、春彦と猿島との電話やり取りの内容を、一言も漏らさないよう、慎重に、取ったメモを見ながら伝えた。
「わかりました。
 まず、警察にその旨を伝えるのと、別に、警察にいる友人に、その屋敷の持ち主のことを聞いてみます。」
一樹は、舞にお辞儀して、足早にリビングの電話のところに行き、電話をかけ始めた。
茂子は、佳奈の命が危ないと聞いて、真っ青になって今にも倒れそうになっていた。
舞が、そんな茂子を支えて、ソファに一緒に坐り、茂子の手を握った。
「大丈夫よ。
 絶対に佳奈ちゃんは、無事に帰ってくるから。」
茂子は、黙って頷き、舞の手を握り返した。
茂子は、佳奈がいなくなってから、食も細くなり、不眠症にもなっていたので、今にも倒れそうになっていた。
「茂子、しっかりしなさいよ。
 佳奈ちゃんが戻ってきたら、茂子がしっかり抱きしめてあげなきゃいけないんだからね。」
「そうよね、そう。
 しっかりしなくちゃ。」
状況は良くないとわかっていたが、手がかりもなく、悶々としているより、居場所が分かり、茂子の顔に少し生気が戻ってきていた。
少しして、一樹が戻ってきた。
「警察は、なんて言ってました?」
「うん、住所を言ったら、ちょっと待ってくれということで、折り返し、電話をくれることになった。」
「えっ?
なんで、すぐに助けに行かないの?」
「どうも、治外法権の場所らしい…。」
一樹は、暗い顔をして言った。
しばらくして、警察から電話が一樹に逢った。
電話を置いた後、一樹は茂子たちに話の内容を伝えた。
佳奈が監禁されている屋敷は、国交が結ばれていない国の要人の屋敷で、一種の治外法権となっており、警察も踏み込めないところということだった。
その屋敷を捜索するには、まず、両国間で話し合いを行い、相手の了承を得ないと行動に起こせないということで、これからその交渉に入ったとしても、結果が出るまで1カ月はかかるということだった。
「でも、そんなに待ったら、弱ってる佳奈が危ないんでしょ?
 その電話の人が言うには、持ってあと少しなんでしょ。」
「そうなんだが、非常にきな臭い国の要人で、日本で何をしているか掴めていないそうだ。
 また、両国に非常に影響力がある人物の屋敷で、迂闊なことはできないらしい。
 本当に佳奈が監禁されている証拠があれば別らしいんだが。」
「そんなことしてたら、佳奈はどうなってしまうの?」
茂子は、また、取り乱しながら、一樹に食って掛かった。
「そんなことは、わかってる…。」
「佳奈…。」
茂子はやっと手がかりが出来たのに何もできず、弱っていく佳奈のことを思い描きながら涙を流し崩れ落ちた。
舞が茂子の肩を抱きしめて、「だいじょうぶだから」と何度も言って落ち着かせようとしていた。
一樹は、そんな茂子を見ながら、じっと考え事をしていた。
そして、決心したかのように、春彦に向かって話しはじめた。
「春彦君、その電話の人の提案の通り、一緒に行ってくれないか。」
春彦は、力強く頷いた。
「立花さん、大事な春彦君を危ない目に合わせるかもしれないが、お願いです。
 せめて、私を屋敷に入れさせてください。
 春彦君には、そこまでで構いません。
 そのあとは、私が何とか佳奈を助け出し、警察に言いますので。」
舞は、顔を横に振った。
「一樹さん、その電話の人の話だと、危ない人が大勢いるらしいわ。
 それに、屋敷の持ち主の情報からも、それは嘘じゃないと思います。
 ですので、春彦を一緒に連れて行ってください。
 春彦は、これでも力もあるし、一樹さんよりは使えると思いますよ。
 それに、何よりも、佳奈ちゃんを早く助けなくちゃ。」
「立花さん…。
 すまない。」
一樹は、自分の非力さがわかっていて、舞に深くお辞儀をした。
「春、わかってるね。」
舞が春彦に向かって言った。
「最初から、そのつもりだよ。」
春彦は気負うことなく、さらりと言い放った。
「春彦君…。」
一樹は、声を詰まらせながら、春彦の手を握っていった。
春彦は頷き、一樹に話しかけた。
「ちょっと、これから、明日の段取りをしますから、ちょっと、失礼します。」
そっと、一樹の手をほどいて、携帯を出しながらリビングを出ていった。
「茂子、一樹さん、大丈夫よ。
 ああ見えても、私とあいつの子供だから。」
茂子と一樹は、その言葉を聞いて頷くだけだった。
ドアを出て、春彦は電話をかけていた。
「もしもし、立花だけど。」
「おお、春か。
 何かあったのか?こんな時間に。」
電話の相手の男の声が答えた。
「ああ、実は頼みがあるんだけど。」
「えっ?
 なんだ?」
相手の男は訝しがるように答えた。
「悪いんだけど、力を返してくれないか。」
「…。」
一瞬電話先の男は黙ったが、すぐに返事を返した。
「それは構わない。
が、何かやばそうだな。
菅井絡みか。
何があったのか話してくれ。」
春彦は、要点を電話の相手に伝えた。
電話の相手は福山俊介といって、春彦の中学時代からの友人だった。
「話しは、わかった。
 手を貸す。
 あと、おやじに言って、使えそうなやつを連れていく。
 だけど、俺と同じくらいの奴は、2人くらいしかいない。
 まあ、お前と俺なら、大抵何とかなると思うが。」
「すまんな、危ないことに顔を突っ込ませて。」
「何言ってんだが。
 じゃあ、明日、お前に家に行って、段取りを確認させてくれ。」
「頼むな。」
「おお。」
そのやり取りの後、春彦は電話を切って、茂子たちのいるリビングに戻った。
「いま、明日の段取りをつけてきました。
 私の友人の中で、一番、信頼がおけて、腕が立つ友人に協力してもらいます。」
一樹は、心配そうに言った。
「でも、その友人まで、危ない目に合わせて、大丈夫なのか?」
「それは、ご心配なく。
 そういうことは、こちらに任せてください。
 それよりも、明日の段取りを決めないとですね。
 電話の主の話しだと、明日の17時ということで、明日、午前中に、相談して決めましょう。
 なので、残念ですが今日はやることがないので、明日に備えて休みましょう。」
春彦は、冷静に言った。
その冷静さが、そこにいる全員に伝染したのか、皆、落ち着きを取り戻し、頷いた。
そのあと、春彦と舞は、家に戻るべく、茂子たちの家を後にした。

次の日の夕方、春彦の運転する車には、一樹と茂子が乗っていた。
舞は、自宅で連絡係で待機だった。
最初は一緒に行くと言い張ったが、春彦に説得させられていた。
「何でよ、何で私も行くって。」
「だめだ。
 もし、俺達から連絡が途切れたら、すぐに、警察に通報してもらわなくちゃいけないんだし。
 助け出した佳奈を連れていく病院の手配とか、母さんじゃなければ出来ないことばかりだから。」
春彦は、おどおどしている茂子は眼中になかった。
また、一樹は一緒に屋敷に入るので連絡が取れ、冷静に物事を判断できる舞を頼りにしていた

「じゃあ、ちょっと行ってくる。」
これから佳奈の救出に困難が待ち受けているのに、春彦はいつものように家を出ようとしていた。
「……」
「えっ?
ああ、そうね。」
春彦を送り出そうとした舞は、急に何かを思い出したように言った。
「ちょっと、お待ちなさい。」
舞は、そういって春彦に近づき、春彦の頭を両腕で挟み込むようにして、自分の胸に春彦を抱きしめた。
春彦は、母親に抱かれるのは幼稚園児依頼で懐かしく思え、抵抗しなかった。
舞は、そんな春彦の耳元にささやいた。
「春彦、今一度、お前を解放します。
気を付けていってきなさい。」
春彦は、にこりと笑って小さく「了解」と言って、舞から離れ、玄関の外に出ていった。
「これでいいのかしら?
 悠美、これは何の呪文なの?」
空を見ながら舞は呟いた。
DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
外に出ると、すでに車のところには、福山とその部下の穴吹と小田桐、あと、年配だが体のがっちりした浅黒い男が立っていた。
「あれ?
 福山のおじさん?」
春彦は少し驚いて言った。
「おお、立花君。
 話は、全部、俊介から聞いたよ。
 君たちほどではないが、サポートさせてくれ。」
「それは、たいへん助かります。」
福山俊介の父親の重蔵は、涼しげな顔を春彦に向けて言った。
重蔵は警備会社の社長で、年齢的に俊介には力で劣るが、数々の修羅場を潜り抜けてきた頼りになる人物だった。
春彦にとっても、実際、争うことになると全体が見えなくなるので、全体を見渡して、的確に状況判断できる重蔵が一緒に来てくれるのは、何よりも心強かった。
「立花、親父と、あと二人連れてきた。
 穴吹と小田桐だ。」
春彦は、俊介に紹介された穴吹と小田桐に挨拶をした。
穴吹と小田桐は二人とも、緊張しながら挨拶を返した。
「今日は、すみません。
 危ない目に逢すかもしれませんが、是非、よろしくお願いします。」
「いえ、気にしないでください。
 僕たちも、俊介さんと一緒にお手伝いができ、光栄です。
 絶対に、無事に菅井さんを取り返しましょう。」
「よろしくお願いします。」
春彦は、穴吹の顔を見たことがあるのを思い出した。
たまに、春彦は俊介に頼まれて、実践形式の組手、稽古に付き合わされていた。
その場には、いつも佳奈が付き添い、春彦が我を忘れ、危ない状況になると春彦を制する役を担当していた。
たまに、それをよく見学していたのが、穴吹だった。
穴吹は、そういうことで親しからずだが、佳奈とも面識があるので、危険を顧みずに一緒に行くことを何の迷いもなかった。
春彦は最後に俊介に近づいた。
そして、黙ってこぶしを作り俊介の方に、そのこぶしを伸ばした。
「ん?」
俊介は、春彦の雰囲気がいつもと違うことを感じとっていた。
(春彦、気合が入っているのか…)
俊介は、春彦が何かから解き放たれているように感じた。
そして俊介も同じように、黙って頷き、こぶしを合わせた。
そうしていると、茂子と一樹が小走りで近づいてきた。
「すみません。
 待たせてしまって。」
一樹が、春彦たちにお辞儀しながら言った。
その横の茂子も一緒にお辞儀をした。
2人とも、居てもたっても居られないかのように、速足で、最後には小走りできたせいか、息を切らせていた。
春彦は、一樹と茂子に福山親子とその部下の2人を紹介した。
「今日は、何と言っていいか。
 私の佳奈のことで。ご協力いただきまして、本当にありがとうございます。」
一樹がお礼を述べた。
重蔵は、笑って片手をあげ、挨拶をしていた。
「お父さん、礼はお嬢さんを助け出してからじゃ。」
「さあ、じゃあ、今まで話した段取りで行きましょう。」
春彦が出発をつげ、春彦の車に一樹を茂子が、後は福山親子が乗ってきたバンが続いて、佳奈が監禁されている屋敷に向かった。
屋敷の近くのコイン駐車場に二組の車を止め、茂子と念のため小田桐を車に残し、あとの4人は待ち合わせの場所に近づいた。
そして、17時ちょうどに、そーっと、裏口のドアが開き、中から細身の鋭い目つきをした猿島が顔を出した。
それを見て、春彦が皆を引き連れ猿島の方に向かった。
「あんたが、立花?」
春彦は、黙ってうなずいた。
「勘定できそうなのは5人?」
「いや、3人です。
 一人は佳奈の父親ともう一人はサポート役です。」
春彦は、一樹と重蔵に視線を飛ばし、説明した。
「まあ、こっちも2人いるから、何とかなるか。
 いま、丁度、向こうは5人だから。
 ただ、なるべく争いは避けたほうがいいね。
 相手はプロだから、無事に助け出したければね。」
「わかってます。」
「ふーん」
落ち着いている春彦を見て、猿島は少し感心していた。
(この子、肝が据わってるね)
「じゃあ、行こう。
 あの娘、結構弱ってるから、早いほうが良いよ。」
猿島のその一言で、全員に緊張が走った。
裏口から全員、屋敷の敷地に入った。
裏口から屋敷にかけて、少し、距離があり、全員静かに音をたてないように注意しながら屋敷に向かって移動し始めた。
その途端、屋敷の通用口が開き、一人の男が飛び出してきた。
その男は、左腕から血を流し、右手でその傷を押さえていた。
「ちっ」と猿島は小さく舌打ちし、男に向かって小声で呼びかけた。
「猪、こっち」
男は、猪俣だった。
猪俣は、腕を押さえながら猿島たちに近づいてきた。
「どうしたの?」
「やつら、やっぱ、拳銃とか持っていやがった。
 武器庫に鍵をかけて、取り出せないようにしたんだが、見つかっちまって、このありさまさ。
 こっちは、あの娘の王子様か?」
怪我をしながらも猪俣はウィンクしながら軽口をたたいた。
「こいつは、猪俣と言って、今回の協力者だよ。」
猿島が簡単に紹介した。
その時、猪俣の後を追ってか、スーツ姿の二人の男が飛び出してきた。
2人は、あたり見渡し、春彦たちを見つけると、無言で小走りに近づいてきた。
2人とも無表情で、手には警棒のようなものを持っていた。
「ちっ」
また、猿島が舌打ちし、近づいてくる男たちに向かっていこうとした。
猪俣も、傷を負いながら、猿島に続こうと身を起こした。
その時、猿島の横を春彦と俊介が、何も言わずに走り抜け、男たちに向かって行った。
「ちょ、ちょっと。」
猿島は、あ然として、その場に立ち尽くした。
「さて、俊介はいいが、立花君がなあ。」
いつの間にか近づいていた重蔵がつぶやいた。
「え?」
訳がわからず、猿島と猪俣は春彦たちに視線を向けた。
相手の傭兵も、春彦たちも4人とも、無言で小走りに間合いを詰めていった。
そして、1対1で二組の争いが始まった。
誰も声を出さず、むだな動きをせずに、正確に相手の急所めがけて警棒を振り下ろす相手に俊介はギリギリのところでかわしていた。
そして、少しの隙を見つけ、蹴りをその警棒を持っている腕にあて、警棒を落とさせ、矢継ぎ早に、掌底を相手の急所に打ち込んだ。
たまらずに男は、何も言わずに崩れ落ちた。
俊介は、春彦を目で探した。
春彦は、すぐ近くで、もう一人の男と対峙していた。
「ぐがが…。」
が、すぐに男は苦痛で声にならない声を上げて、のたうち回っていた。
「春彦、ストップ。」
俊介は小さく鋭い声で、次の攻撃を仕掛けようとする春彦を制し、春彦と男の間に割り込んで、男の急所に正拳を当てた。
「ぐっ。」
男は、そのまま、静かになった。
「春彦、額の傷は大丈夫か?」
春彦は、額から血を流していた。
「ああ、大したことはない。
 すぐに止まるよ。」
猿島たちが、春彦たちのところへ合流した。
「立花、あんた。」
猿島は驚愕の眼差しで、春彦を見ていた。
猿島と猪俣は、最初から春彦の挙動を見ていた。
春彦は、まるで無防備で相手との間合いを詰めて行った。
そして、相手が、警棒で春彦の頭を殴った瞬間に、春彦ではなく殴った相手が崩れ落ち、地面にのたうち回っていた。
しかも、どんな時でも声を上げない訓練をされた相手が苦痛で声を上げていたから尚更だった。
「春彦君、本当に大丈夫か?」
一樹は、心配して春彦に声をかけた。
「ええ、かすり傷なので。
 ほら、もう血は止まっています。」
見ると、本当にかすり傷で、血はもう止まっていた。
猿島と猪俣は信じられないと言った顔で、改めて、春彦を見ていた。
「警棒は、確かに、あんちゃんの頭を捉えていたのに…。
 本当なら、ぱっくり頭が割れて、脳味噌ぶち巻いていたはず…。」
猪俣が信じられないという顔をして言った。
「それもそうだけど、あの用心棒が、瞬殺だよ。
 しかも、苦しそうな声を上げて。」
猿島も呆れた顔で猪俣に続いた。
「さあ、時間がない。
 早く行きましょう。」
春彦の声で、皆、建物の入り口に向かって言った。
重蔵は、腑に落ちない顔をしている猿島と猪俣に小声で言った。
「俊介は、格闘技をやっているので、急所に入れば相手はあっさりダウンするんだが、春彦君のは、相手を、壊しにいってるんだよ。」
「えっ?」
猿島は意味が分からず聞き直していた。
「何と言っていいか、形容しがたいんだが、壊しにいくもんだから、相手は、ひどい苦痛を受けるんだ。
俊介が早く気絶させたからいいけど、そうしないと周りに声が漏れてしまうのさ。
まあ、それだけでなく、一番厄介なのは、春彦君の気だよ。」
「気?」
「ああ、俗に言う殺気ってやつさ。」
「それで相手がどうにかなるのかい?」
猪俣が口を挟んだ。
「彼の殺気は、それだけで、相手を十分倒してしまうほど凄まじいものなんだよ。
おそらくあの男は警棒を振り上げた瞬間に春彦君の殺気に当てられて力が抜けたんだろうな。
だから、春彦君の怪我が大したことなかったんだろう。」
猿島と猪俣は、その話を聞きながら信じられなかったが、確かに男が警棒を振り下ろそうとした時、顔が恐怖で歪んでいたような気がし、思わず唾を飲み込んだ。
「猿島さん、どっちに行けばいい?」
春彦の声で猿島は「はっ」とした。
今は、そんなことに感心しているのではなく、一刻も早く佳奈を救出して、逃げ出さないと、丸山達が戻ってきたら、非常に厄介なことになることを思い出した。
「こっちよ、着いてきて。」
猿島は先頭に立って、建物の内部に入り廊下を進んでいった。
「中には、後、3人いるから気を付けて。」
猪俣が猿島に警告した。
猿島は黙って頷き、それでも足早に速度を落とさず、廊下の先の階段を下って行った。
猿島を先頭に、猪俣、春彦、俊介、穴吹と一樹が続き、しんがりに重蔵といった順で進んでいった。
地下に着いたあと、薄暗い廊下を進んだところに、複数の部屋のドアがあった。
その内の一つのドアのところで、猿島は止まり、ここだと合図した。
猿島が、そっとドアを開け、一同が部屋に入ると、ひどい悪臭が漂っていた。
その部屋のマットレスのところで、ぼろ雑巾のように、一人の人間らしきものが寝かされていた。
「佳奈!」
思わず、一樹が大声を出して、その人間、佳奈のところに走って行った。
春彦も、一樹に続いて小走りに近づいていく。
「おお、佳奈。
佳奈、大丈夫か?」
一樹が、佳奈を抱きかかえようとした時、猿島が鋭い声で制した。
「待って。
この娘、背中から腰、脚と床ずれがひどくて、皮がむけているの。
乱暴に触ったら、皮がずるっと剥けちゃうかも知れないからそっと扱って。」
「えっ、そんなに…。」
一樹は絶句した。
すぐそこに、会いたくて千秋の思いをしていた佳奈がいるのに、手も触れられないとは。
「まず、その拘束着を脱がしてから、そっと何かの布で包んであげないと。」
春彦が猿島の言うことを聞き、取り乱している一樹を落ち着かせ、猿島の手伝いに回った。
部屋にこもっている悪臭は、佳奈からで、ひどい床ずれで背中から全身にかけて、化膿して膿みがでていた。
拘束着を脱がすと、佳奈は、薄汚れた寝具を着せられていた。
「こまめに、あいつらの目を盗んで、寝具を洗ったり、体を拭いてあげてたんだけど、床ずれがひどくなり、凄く痛がって、どうしようもなくなってたんだ。」
猿島は、いつの間にか涙声になっていた。
そして春彦は猿島が用意した比較的きれいなシーツを受け取り、そっと、佳奈をくるんで、腕に抱いた。
佳奈は、驚くほど軽かった。
一樹は、佳奈から片時も離れず、佳奈を覗き込んでいた。
「一樹さん、僕がそっと佳奈を運びますから、一緒について来てください。」
「うんうん。」
一樹は、変わり果てた佳奈の姿を見てショックを隠せなかった。
その時、3人の男が部屋に入ってきた。
先程の一樹の取り乱した声で、休んでいた3人の丸山の部下が駆け付けたのだった。
3人は、先程の二人より手練れで、やはり、有無も言わせずに向かってきた。
俊介、穴吹がひとりづつ、猿島と猪俣が二人がかりでもう一人と対峙し、戦いの火花が切って落とされた。
しかし、相手は傭兵で戦闘に手慣れているため、俊介以外は、押され気味となっていた。
特に猪俣は怪我をしているため、猿島、猪俣は、劣勢に立たされていた。
春彦は、佳奈をそっと下に置き、加勢に回ろうとした。
それを見て、俊介が大声でどなった。
「春彦、ここは何とか食い止めるから、菅井を連れて早く外へ。
 親父、菅井の父ちゃんと春彦をサポートして。」
「わかった、外に出たら、加勢を連れて戻ってくるから、何とかこらえろ。」
「おうさ、穴吹、気合入れろよ。」
「はい。」
そんなやり取りの中、春彦は、俊介の言うことに頷き、佳奈を、下に降ろすのをやめた。
その時、ドアの方から声が聞こえた。
「なんだ、こいつらは。
 なにやってんだぁ。」
声の主は、執事の丸山だった。
丸山は、用事がキャンセルになって、3人の部下を引き連れてもどってきたのだった。
「まずいよ、猿ちゃん。
 丸山が、もう、戻ってきた。」
「わかってるよ。
しかも、お兄さんたち、3人も一緒だよ。
ただでさえ、こっちはいっぱいいっぱいなのに、やばいね。」
猿島は、苦々しい声で答えた。
「ん?猿島に猪俣か。
まさか、お前たち、こいつらを呼び込んだな。
一緒に始末してくれるわ。」
俊介が、対峙していた男を倒し、春彦の傍に戻ってきて言った。
「お前が、悪党の親玉か。」
「何だか知らんが、小童ども。
そうか、そのごみの知り合いか。」
丸山は佳奈の方を見て、毒づいた。
「おい、お前たち、とっとと女ごと始末しちまえ。」
丸山が、顎でしゃくると、新たに入ってきた3人が無表情で春彦たちに向かって歩き始めた。
「おい、その汚くて臭いのをとっとと始末しちゃえ。
 まるで、豚みたいに臭くてたまらん。」
「なんだって人の娘に…。」
一樹は、怒りに震えていた。
「なんだ、お前は、その豚のおやじか。
 安心しろ、すぐに後を追わしてやる。」
その時、急に部屋の中の空気が殺伐とした空気に変わった。
正確にいうと変わった気がした。
春彦は、佳奈を抱きながら、立ち上がり丸山に向き合った。
「お前が、佳奈をこんなにしたのか…。」
どこか威圧感のある声で春彦は丸山に言った。
「なんだ、お前。
 薄気味悪い奴だな。
 ははぁ、その豚女の彼氏か。
 ちょうどいい、一緒にあの世に送ってやるよ。」
「…。」
春彦は、目を閉じ、何かを貯めているようだった。
その春彦から、何か気のようなものが強く感じ始めた。
「おい、全員、気を強く持てよ。」
重蔵が、大声で、穴吹、猿島、猪俣に怒鳴った。
「え?
 はい。」
ただならない気配を感じて、穴吹は、うまく相手のバランスを崩させ、さっと、重蔵の方に戻ってきた。
その時、春彦は目をゆっくりと開き、丸山やその部下たちをにらんだ。
その刹那、春彦から殺気が丸山達に向かって放たれた。
猿島と猪俣は、春彦と丸山達の間から逃げ、横の壁に張り付いて様子をうかがっていた。
「ひっ。」
猿島は思わず悲鳴を上げた。
目線の先の春彦は、まるでテレビで見たことのある巨大なサメの無感情のような瞳と同じ、それ以上に真黒ブラックホールのような瞳をしていた。
その瞳から押し出されている恐怖から、立っていられず、しゃがみ込み、まるで死の絶望からか涙が流れ始めていた。
「殺される。」
猪俣もしゃがみ込みながら、うめき声を上げた。
猿島は、気を振り絞って丸山達を見た。
丸山の部下は、全員、腰を抜かし戦意を喪失どころか、失神寸前で、全員跪いていた。
皆、自分がどうやって殺されていくのかを感じているようだった。
丸山は、さすがに、立って耐えていた。
「春彦、お前…。
まだ、底じゃなかったのか。」
傍らにいた俊介も、春彦の殺気を感じ、息も絶え絶えになっていた。
俊介にとっては、春彦の殺気を何度か体験したことがあったが、今回は、その比ではなかった。
自分に向けられているものではないとわかっているが、それでも、厳しいもので、穴吹は腰くだけのように座り込んでいた。
重蔵は、春彦の後ろで一樹の盾になるように立ちふさがっていた。
一樹は、雷に打たれたように、何が起きているかわからず、ともかく、両手で頭を押さえてしゃがみ込んでいた。
春彦の殺気は、気の弱いものであれば、あっという間に失神するほどのものだった。
「やばいな、これを長時間続けられたら、こっちもまいっちまう。」
俊介がそう感じた時、小さな、今にも切れかけているような声がした。
「は…る…。」
声の主は佳奈だった。
その瞬間、全員が殺気から解放された。
「佳奈。」
春彦は、小さい声で、そっと佳奈に話しかけた。
しかし、佳奈は、答えなかった。
俊介は、周りを見渡した。
相手は、丸山以外は、口から泡を吹いて失神しているように倒れていた。
丸山も苦しそうに肩で息をしていた。
「な…、なんだ、今のは…。」
猿島と猪俣は、春彦の正面ではなく、ギリギリに壁際に寄りかかり、何とか気を繋ぎ止めていた。
「し…かし、すごい子だね…。
 丸山以外は、何も手を出さずとも倒しちゃったよ。」
猿島が、息も絶え絶え猪俣に言った。
「たまらない…。
 こっちも、まじで、死ぬわ。」
猪俣も何とか声を振り絞った
「しかし、丸山もしぶといね。
 あれだけ、直撃されても、立っているよ。」
猿島と猪俣は、あきれ返った声を出した。
「ち、だらしな…い。
 私が、全員、始末してくれるわ。」
丸山はそういうと、懐に手を入れようとした。
その瞬間、丸山は、動きを止め立ち尽くした。
それを見た、猿島と猪俣は、猛烈な勢いで丸山に向かっていき、猿島が蹴り脚で丸山の顔を、猪俣が体に体当たりと、丸山を襲った。
丸山は、そのまま、壁に激突し、崩れ落ちた。
猿島と猪俣は、佳奈を抱いた春彦の方を振り向いた。
春彦は、丸山が懐に手を入れた瞬間、丸山に矢のような殺気を放っていたのだった。
「あいつ、一瞬、丸山にだけ殺気を飛ばしたんじゃないかしら。」
と、猿島は理解した。
俊介も頭を振りながら、春彦に声をかけた。
「春彦、ここはあとやっておくから、早く佳奈を病院へ。」
春彦も、完全に我に返ったかのように頷いた。
「じゃあ、後はお願いします。
一樹さん、大丈夫ですか。
行きましょう。」
春彦が、一樹に声をかけた。
一樹は、何が起こったか理解できないようだったが、すぐに佳奈のことで頭がいっぱいになり、頷き、春彦に抱かれている佳奈の傍に近寄ってきた。
「もう、大丈夫だと思うが、油断するなよ。
ともかく、こいつらを縛り上げとけ。
春彦君たちを屋敷の外に出したら、すぐに戻ってくるから。」
「ああ、親父、頼んだ。」
春彦は、豆腐でも崩れないように、真綿で抱きしめるように、そっと佳奈を抱き歩き始めた。
その時、猿島が声を出した。
「その娘、怪我をして下半身が麻痺してるって。
 あと、ほとんど何も口にしていないから。
点滴でたえていたようなものだからね。
お医者さんにちゃんと伝えて。」
春彦は、猿島の方を見て、頷いた。
そして、先頭に重蔵が立ち、用心しながら部屋の外に出ていった。
そして、重蔵が付いてくるように春彦に促し、春彦たちは、それに続いた。
一樹は、春彦に抱かれている佳奈の傍らにずっと付き添っていた。
4人が部屋を出た後、残された俊介、穴吹、猿島、猪俣は、その場に腰砕けのようにしゃがみ込んで、肩で息をしていた。

しばらくして、穴吹が疲れ切った声で言った。
「俊介さん、あいつら縛らないと、まずいですよね。
 こっちがこんなへとへとな時に、息吹き替えしたら、ちょっとやばいですよね。」
「それなら大丈夫だろう。
春彦のあれをまともに喰らったんだから。
目が覚めても、使い物にならないだろう。」
「そうですね。
 しっかし、あれはやばかったですね。
 あの黒づくめたちと争っているのは平気でしたが、あれは…。
 もう少しで、春彦さんに殺されるところでしたよ。」
「実際、あのまま続いていたら、皆殺しになっていただろうな。」
「あれは、いったい何なんですか。」
「あれは、春彦の殺気だよ。
 今度、ゆっくり話してやるけど、殺気だけではなく、奴は強い。」
そして俊介は呆れたように呟いた。
「しかし、あんな殺気、俺も初めてだよ。
 たぶん、あのままだったら、菅井を下に置いて、全殺しだろう、見境もなく…。
 あの時、菅井が、止めてくれなければね。」
「はあ、あの春彦君が…。
 おっかないな。」
穴吹は、しみじみと言った。
「あんな奴がいるなんて。
私、もう平和に暮らしたいわ。」
「おれも。」
猿島と猪俣が穴吹に呼応するように、声を絞り出した。
「そう言えば、あんたたちは、あいつらの仲間じゃないのか?」
俊介の問いに、猿島は、単に雇われていただけで、仲間でない旨説明した。
「ふーん。
 『地獄の猿真』に『全殺しの猪』かあ。」
「えっ?」
猿島と猪俣は、俊介から出た二人の昔のあだ名にびっくりして、顔を見合わせた。
DATE: CATEGORY:第1章 佳奈の災難
その頃、春彦たちは、屋敷の中庭に出ていた。
春彦は、抱いている佳奈の体温が下がってきていることに気が付き、立ち止まった。
そして、そっと抱いている腕の力を籠め、佳奈の顔に自分の顔を近づけた。
そして、佳奈の耳元で小さく「佳奈、頑張れ」と囁いた。
「春彦君?」
一樹が、どうかしたのかと春彦に声をかけた。
「佳奈の様子が、かなり悪いみたいです。
 早く病院へ。」
春彦は冷静に答えた。
「う、うん。」
4人は、建物の外に出た。
そとには、茂子のほかに、十人近くの警官や私服姿の刑事が立っていた。
重蔵が知り合いの刑事に事前に事態を説明し、これから屋敷に入ると連絡したからだった。
ただ、令状も何もないので、外で出てくるのをやきもきしながら待っていたのだった。
重蔵が、その中の一人にあわただしく声をかけた。
「三上、この娘が監禁されていた娘だ。
 早く病院に連れていかなければ、危ない状況だ。」
茂子が、すっ飛んで佳奈のところに来た。
「佳奈、佳奈、しっかりしなさい。
 お母さんよ。
 しっかりしなさい。」
変わり果てた我が子を見て、茂子は半狂乱になっていた。
「すぐに、救急車を呼ぶから。」
三上と呼ばれた刑事は、重蔵に頷いていった。
「いえ、もう、病院は手配してますので、私が連れていきます。」
春彦が、横から口をはさんだ。
「茂子さん、一樹さん、早く車に。」
「わかった。」
春彦の車の後部座席に茂子と一樹が乗り込み、その膝の上にそっと、シーツにくるまれた佳奈を横たえ、春彦は、運転席に入り込んだ。
そして運転席で、急いで春彦は舞の携帯に電話を掛けた。
「もしもし、母さん?」
「春彦?どうだった?」
「佳奈は助け出したけど、予想以上に様態が悪い。」
冷静に春彦は状況を舞に伝えた。
「病院の方は?」
「もう手配して、お医者さんが待っていてくれているから、早く来なさい。」
電話口で怒鳴るように、舞が言った。
電話を切り、車を出そうとした時、三上に声を掛けられた。
「パトカーで先導するから、病院名を教えなさい。」
「すみません、よろしくお願いします。」
あわただしく、行き先の病院を言ってパトカーを先頭に春彦の車は、佳奈を乗せ走り出した。
車の中では、茂子が必死になって佳奈の名前を呼んでいた。
佳奈は、薄い意識の中で、春彦に名前を呼ばれたこと、その時に、何か温かいものが胸の中に流れ込んできたのと、一樹と茂子の声がぼーっと聞こえた気がしていた。
舞は、甥にあたる光一に事前に状況を話、悠美が入院していた病院を手配して待っていた。
悠美の入院していた病院は、設備も整っているこの辺では一番大きく評判の良い病院だった。
普通は、そういう話をしても取り入ってはもらえないのだが、病院の古くからいる医師や看護婦は悠美のことを覚えていて、その身内の光一や舞からの頼みだったので、二つ返事で快く協力してくれることになった。
悠美は、その明るい、人懐っこい性格から、医師や看護婦から評判がよく、それで10年以上も経つのについ先日のことの様に覚えられていた。
「あの、こんなことって?」
比較的新しい看護婦が、年配の看護婦に尋ねた。
「そうね、あなたは知らないものね。
 すごく、そう、笑うかもしれないけど天使のような患者さんがいたの。
 でも、残念ながらここで亡くなったの。
 すごく印象に残る人で、まだ、みんな覚えているのよ。
 その人が実の妹のように可愛がっていた娘だっていうからね。
 ほら、来たみたい。」
遠くからパトカーのサイレンが近づいてきて、急患の通用口に滑り込んできた。
病院側は、すでにストレッチャーを用意して待っていた。
春彦は、佳奈をそっと抱き、ストレッチャーに横たえた。
そして、近くにいた医師に、猿島から言われたことを伝えた。
「わかりました。
 急ぎましょう。」
看護婦が急いで佳奈の横たわっているストレッチャーを治療室に運び込んだ。
「先生、佳奈のことをどうかお願いします。」
茂子がすがり付くように医師に言った。
医師はこわばった顔でうなずき、治療室に入っていった。
治療室では、ばたばたと準備が進んでいた。
医師と看護婦が数名で、佳奈のまとっていた寝具を取り、状況を確認した。
「これは、ひどい。」
あまりの状態のひどさに、皆、絶句してしまった。
佳奈は、がりがりにやせてしまっていて、また、背中から足まで床ずれがひどく、そこから、化膿し、ひどい状態だった。
また、事故にあったということで、あちらこちらに怪我の跡があり、どこか骨が折れているか、内臓が損傷しているか、くまなく確認しなければならなかった。
佳奈を見ていた医師や看護婦たちは、あまりの酷さに絶句して棒立ちとなった。
その時、治療室にいる全員が、風が通り抜けたような気がした。
若い看護婦がはっと我に返り、見わたすと、医師やベテランの看護婦たちが涙ぐんでいた。
「あの…」
その看護婦が声をかけると、全員がはっとし、いそいで処置を始めた。
治療や検査で10時間以上かかっていた。
治療室の外ではベンチに茂子と一樹が祈るように座っていた。
春彦は、舞に合図され、少し離れた待合室にいた。
すでに病院の待合室は真っ暗で、非常灯と自動販売機の明かりだけがついていた。
「ご苦労様。
 あんたは、怪我とかは大丈夫?
 他の人は?」
「ああ、皆、だいじょうぶ。
 多少の怪我はしたけど、大したことないよ。」
「あんた、そのおでこは?」
舞が春彦の額に血の跡と赤くなっている傷を見つけて言った。
「これ?
ちょっともみ合ってる時に、やられたんだけど、すぐに血も止まり、かすり傷だよ。」
「念のため、後で診てもらいなさい。」
「わかった。」
「佳奈ちゃん、かなり危険な状態だって?」
「ああ、でも、きっと大丈夫。
 この病院は、悠美ちゃんが入院していた病院だからね。」
「そうね…。」
でも、結果は残念だったのよと舞は言おうとして口をつぐんだ。
心の中では、そう思う反面、春彦の言うほうにかけていた。
長時間の処置が済み、医師が出てきて状況の説明を4人にした。
佳奈は、全身打撲のほか、肋骨と脚に骨折が見られ、一番ひどいのは、栄養失調と床ずれが化膿し、そこから雑菌が入り全身に回っており、ここ2~3日が山だろうと語った。
茂子は、がっくり肩を落とし、一樹がその肩を抱きしめた。
あまりの残酷な状況で、茂子はさめざめと泣いていた。
舞と春彦は唇をかみしめ、じっと聞いていた。
舞は茂子の傍にひざまずき、泣いている茂子を励ました。
「茂子、何泣いてるの。
 佳奈ちゃん、ダメと決まったわけではないでしょ。
 先生が、いま、そういったじゃない。
 いまも佳奈ちゃん、頑張ってるのよ。
 みんなで応援しなくちゃね。」
「そうですよ、まだ、無菌室なので入れませんが、ガラス越しに様子を見ることが出来ますので、励ましてあげてくださいね。」
医師の言葉に茂子は何度も何度もうなずいた。
「そうよね、このくらいじゃへこたれない子だから。
 ね、一樹さん。」
「そうだよ。
 佳奈は強いから大丈夫。」
一樹は頷いて茂子の手を取った。
「さあ、様子を見に行こう。」
皆、無菌室の外からガラス越しに佳奈を見た。
佳奈は、全身、包帯だらけで、酸素吸入器を付けられ、いろいろな医療器具につながれていた。
そのあまりのむごさに、一同、声をなくし立ち尽くした。
春彦は、ギリギリと奥歯を嫌というほど噛み、髪の毛が静電気でぼさぼさになるかのようだった。
そして、そっと、その場を去ろうとした。
その時、春彦の手を舞が握りしめた。
「あんた、バカなこと考えるんじゃないわよ。」
小声で、ぴしゃりと言われ、春彦は脱力した。
茂子は、ガラスに張り付くようにして、佳奈に向かって声を絞り出していた。
「佳奈、頑張るのよ。
 皆、いるからね。」

佳奈は、青空の下、きれいな花が咲き誇っている公園のベンチに座っていた。
その横には、どこか懐かしい、優しく微笑んで坐っている女性がいた。
佳奈は、その女性を見て、声を出した。
「ゆ…み…ねえ?
悠美姉?」
「そうよ、佳奈、久し振り。」
悠美は、優しく微笑んで答えた。
「たいへんだったね。
 すごく痛かったでしょう。」
そういうと、悠美は立ち上がり、佳奈の前に立ち、やさしく両手で佳奈の頬を撫で、自分の胸に抱き寄せた。
「わあい、久し振りに悠美姉に抱かれた。
 やっぱり、悠美姉、柔らかいし、いい匂い。
 大好き。」
佳奈は、そういいながら自分から悠美の胸に顔を埋めて、思いっきり息を吸い込んだ。
「まあ。
 そんなに、顔を押し付けると、鼻がペシャンコになっちゃうわよ。」
悠美は、くすくすと笑った。
「えー、意地悪。」
佳奈は、そこし悠美の胸から顔を離した。
「あら?
 佳奈、胸のあたりが光ってるよ。」
佳奈は、そういわれて自分の胸のあたりを見ると、やわらかな明かりが胸の奥から光っているようだった。
「そうだ、確か、春の声が聞こえ、そしたら胸が暖かくなったの。
 ちょうど、この辺。」
「ふーん、そうなんだ。
 春ちゃんがねえ。
どれどれ。」
悠美は、その光の上に自分の手を添えた。
光は、少し強くなった。
「悠美姉、なんかすごく暖かくて気持ちいい。」
佳奈はうっとりした顔で言った。
悠美は、そんな佳奈を見つめながら優しく言った。
「佳奈。
 佳奈の身体の傷は時間がたてば治るわよ。」
佳奈は頷いた。
「でもね、心の傷は、一人ではなかなか治らないわ。
 だからね、春ちゃんと一緒に治さなきゃだめよ。」
「えっ?」
佳奈は、意味が分からず聞き直した。
「ともかく今は、ゆっくり休んで、体の傷を癒しなさい。
 可愛い佳奈、私の可愛い妹。」
佳奈は、悠美に再び抱かれ、幸せな気持ちで満たされ、目を閉じた。

佳奈は入院してから3日後に峠を越し、まだ、熱は高かったが、取りあえず、命の危機は脱していた。
但し、相変らず、こんこんと眠り続けていた。
まるで、目を開けるのを拒否しているように。
ナースステーションでは、佳奈の処置に携わった若手の看護婦が、一緒に処置室にいたベテラン看護婦に尋ねていた。
「高橋さん、聞いていいですか?」
「ん?なに?」
高橋と呼ばれたベテラン看護婦は、日誌をつけている手を止めて、若手の看護婦の方を向いた。
「あの、いま、無菌室に入っている菅井さんですが、最初に、運び込まれて、処置室に入った時、高橋さんやほかの方、あと、先生も涙ぐんでいませんでしたか?」
「え?
 そうだったかしら…。
 でも、急に何か懐かしいような、とても切ない思いになったのは確かね。
 他の人も、同じようなことを言っていたわ。
 何か…、そう、南雲さんが入院していたころのことを思い出したのかしら…。
 南雲さん、盛んに菅井さんのことを可愛い妹だって自慢していたから。」
「南雲さんて、あの、この病院では有名だった、優しい方でしたっけ。
 他の入院患者さん、特に子供やお年寄りに絶大な人気を誇ってた。」
「絶大な人気って…。」
高橋は、吹き出しかけた。
「でも、確かにそうかも。
 特に小さい子供には、すぐ懐かれて。
 それで、ずいぶん助かったのよ。」
「え?」
「小さい子って入院して、親御さんと離れるとすごく心細くなるじゃない。
 この病院でも、幼稚園児未満には、親御さんの24時間の付き添いは許可してるんだけど、しょっちゅう来れない親御さんや、幼稚園の年長さん、小学校の低学年の子については、場所の関係で面会時間以外は付き添いができないじゃない。」
「ええ、皆、午前中はいいんだけど、親御さんたちが帰った夜とか、凄く寂しそうになったりして。
 なんとかみんなで、明るく慰めているんだけど、大変なんですよね。」
若い看護婦も子供が好きなので、一生懸命世話をするのだが、それだけではなく、看護婦としての仕事もあり、かなりの負担を強いられる時があった。
「南雲さんがいた時、南雲さん自身も子供が大好きみたいで、よく小児病棟に遊びに来ていたの。
 本当は、いけないんだけどね。」
高橋は、ぺろっと舌を出した。
「何といっても、子供たちに好かれる人だし、何よりも、あやし上手なの。
 寂しそうな顔をしている子供の傍に言って、ちょっと話をすると、すぐに、その子は明るくなってね。
 治療を怖がる子や、点滴で無図がる子も、南雲さんとお話しすると、頑張って治療を受けるとか、我慢するっていって…。」
高橋は、思い出したのか、涙ぐんでいた。
「いやね、年取ると涙腺が緩くなるのかしら…。
 なのでね、南雲さんが小児病棟に来ると、すぐに子供たちの輪ができるの。
 私たちも、南雲さんがいてくれると、安心して、一息つくことが出来たのよ。
 だって、その時は、私たち全員子供たちからお払い箱だったから。」
高橋は、笑いながら言った。
「そうそう、それで大変なこともあったの。
 夜中、見回りに来たら、子供が二人もいないの。
 もう、みんな総出で探し回ったの。
 そうしたら、どこにいたと思う?」
「もしかしたら…。」
「そうなの、二人とも、ホームシックにかかり、居てもたっても居られなくなったのね。
 泣きべそかきながら、病院中を彷徨ったみたいなの。
 その時、偶然、南雲さんの病室に入ったみたい。
 南雲さん、びっくりして、二人をベッドに入れて一緒に寝てあげたみたいなの。
 南雲さんから連絡を受け、病室に入った時は、その子たち、安心しきった顔して寝ていたのよ。
 なので、それからはたまに夜も顔を出してくれるようになったの。
 先生たちも、黙認してたわ。」
「でも、南雲さんも確か、重い病気だったと聞きましたが。」
「そう、脚に悪性の腫瘍ができ、手術をしたんだけど、結局…。」
高橋は、大きくため息をついた。
「そんな状態で、子供たちの相手をしていたんですか。
 すごい人だったんですね。」
若手の看護婦は感嘆の声を上げた。
高橋は、寂しそうな顔をして
「ごめんね、ちょっと、顔を洗ってくるわね。」
と言って席を離れた。
洗面所に行く高橋の後姿を見送りながら、若手の看護婦は、自分も出来るかなと自問してた。

佳奈が、次に目を開けた時は、心配そうにのぞき込んでいる茂子の顔があった。
佳奈は、結局1週間無菌室に入っていた。
目は覚めていなかったが、様態も安定し、奇跡的な回復を見せ、無菌室を出て個室に入っていた。
熱も徐々に下がり、さらに様態も安定してきていた。
ただ、意識が戻らず、茂子がつきっきりで、常に話しかけたりしていた。
佳奈が目を開けた時も丁度、佳奈のおでこを撫でながら、話しかけていたところだった。
「かあさん?」
佳奈は、小さな声で言った。
茂子は、うれしくて涙が止まらなかった。
「佳奈ちゃん、大丈夫?」
そういいながら、茂子は、ナースコールを押していた。
佳奈は、しばらく、周りをきょろきょろと見回していた。
そして、急に、顔が恐怖にゆがみ始め、体がわなわなと震えはじめた。
佳奈の異変に茂子は、びっくりし、佳奈の手をつかもうとした。
「いやー!」
佳奈が絶叫を上げ、体を苦しそうによじって、まるで、ここから逃げたいと言わんばかりに暴れはじめた。
「佳奈、どうしたの?
 しっかりしなさい。
 私よ、お母さんよ。
 わからないの?」
佳奈は、相変らず絶叫を上げ、あまりの絶叫で喉を切ったのか、口から血が出ていた。
「どうしたんですか?」
数人の看護婦が病室に飛び込んできた。
佳奈の絶叫はフロア中に聞こえるほどの大きな声だった。
「菅井さん、そんなに暴れたら、あちこち傷が開いちゃいますよ。
 喉も切っちゃっているじゃないですか。」
2人がかりで、佳奈を落ち着かせようと、抑え込んだが、佳奈はそれでも身をよじってあばれ続けていた。
「どうしたんだ。」
担当の医師も病室に飛んできた。
「目を覚ましたら、急に、悲鳴を上げて暴れはじめたんです。」
茂子も、佳奈を抑えつけようとしながら説明した。
「君、安定剤を投与するから用意して。」
「はい。」
返事をした看護婦が、注射器を出したのを見た佳奈は、再び絶叫を上げた。
「いやー、注射は、いやー!」
医師は、鋭く、看護婦に指示を出した。
「君、患者に注射器を見せないで!
 見えないところで僕に渡して。」
「はっ、はい!」
「安定剤と睡眠薬を。」
「はい」
佳奈は、3人がかりで抑えつけられていたが、相変らず苦しげに体をよじっていた。
「佳奈」
佳奈は耳元で自分の名前をはっきりとした声で呼ばれた気がした。
その途端、糸が切れた操り人形にように、がっくりと失神したように横たわった。

佳奈は、急に世界が変わった気がした。
そして、目を開けると、悠美が目で心配そうな顔をしていた。
「佳奈、どうしたの?」
「悠美姉、怖いの。」
佳奈は、半べそをかきながら、悠美の胸に顔を埋めていた。
そして悠美の暖かさと、一番安心できる悠美の香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。
「悠美姉、大好き…。」
「あらあら。
 もう大丈夫だからね。」
悠美は、微笑んで言った。
佳奈は、安心しきって目を閉じていった。

病室では、佳奈が静かになりほっとし、佳奈の容態のチェックをしていた。
「ちょっと、傷が開いたみたいだけど、大丈夫でしょう。
 君、念のため、ガーゼを一式変えて、薬をつけて。
 喉は、ちょっと切っただけみたいだから、このままでも大丈夫でしょう。」
「でも、先生、その薬、すぐ効きましたね。」
「いや、注射を打つ前に、おとなしくなったんだよ。」
そういって、医師は薬の入っている注射器を見せた。
「さて、落ち着いたところで、これからのプランを相談しなければ。」
別室で茂子と茂子に呼ばれて飛んできた一樹、担当の医師の岩崎や精神科の医師の安西、看護婦の高橋など数名が集まり、佳奈の今後のプランについて、相談していた。
一樹から、再度、監禁状態だった佳奈の話を聞き、医師は切り出した。
「やはり、地下室に監禁され、拘束着とで身動きが取れず、たびたび、訳の分からない薬を打たれてたんですよね。
 血液検査から、麻薬のではないようで、逮捕された看護婦の供述では、きつい鎮痛剤だったんですか。
 それで、精神的に不安定になってるんですね。」
安西が、状況を確認した。
「それに、長い眠りから覚め、周りに医療器具があると混乱してあばれるということもたびたびあります。」
岩崎が説明を付け加えた。
「どちらにしても、佳奈さんは、心にダメージを追っていますね。
 体のケアと、心のケアをこれからのプログラムに組み込みます。
 取りあえず、精神安定剤を処方し、目が覚めても、暴れないようにしなくては。」
「先生、どうなるんでしょうか。」
茂子は、心配そうに聞いた。
「長い監禁状態と度重なる精神へのダメージで、おそらく、佳奈さんは精神疾患も患っていると思います。
今は、何とも言えませんが、心のリハビリで、定期的にカウンセリングを行いたいと思います。
ともかく、次に目を覚ました時に、どうなるかですね。」
岩崎は少し考え込んでから茂子に尋ねた。
「でも、先程、最初に目を開けた時、お母さんのことはわかったんですよね?」
「はい。
 おかあさんと呼んでくれました。」
「じゃあ、完全に心が壊れたわけではなさそうなので、期待しましょう。」
「はい。
 よろしくお願いします。」
茂子と、一樹は医師に頭を下げた。
「あら?
 佳奈さん、もうすぐ、目を覚ますわ。」
ベテラン看護婦の高橋がつぶやいた。
「え?」
茂子が、聞き直した。
「ともかく、安定剤を用意して。
 あと、トラウマになっているようだから、注射器は見せないで。
 また、拘束着もだめ。
 悪いが、また、暴れたら、全員で押さえて、安定剤を投与しよう。」
岩崎がてきぱきと皆に指示を出していた。
誰も、なぜ、高橋がそう言ったか、本当に目を覚ますのか疑いもせずに、てきぱきと準備を整え、佳奈の病室に入った。
全員が入って、しばらくしてから、佳奈が薄目を開け始めた。
「佳奈、わかる?
 私よ。お母さんよ。
 お父さんもいるから、心配しないで。」
祈るように茂子は佳奈に話しかけた。
佳奈は、だんだんと目を見開き、恐怖の色を顔に浮かべはじめた。
医師は、そっと、看護婦に抑えつける準備をするようにと合図していた。

「佳奈、大丈夫よ。
 安心しなさい。」

佳奈は耳元で誰かにささやかれた気がした。
その瞬間、小さなため息をついて、落ち着いた顔になった。
医師や看護婦も、佳奈の落ち着いた雰囲気を感じ、少し気を緩めた。
「佳奈さん、わかりますか?」
担当の医師が、佳奈に声をかけた。
佳奈は、無表情に頷いた。

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