春彦は、佳奈の部屋のドアの前で立ち止まり、深呼吸をした。
(さて、何て言おうか)
数日前のこと。佳奈の母親の茂子から春彦の母親の舞に、春彦に佳奈を見舞ってほしいと電話があった。
佳奈は、ある事件で犯人に車にはねられ下半身が麻痺する重傷を負い、そのまま連れ去られ監禁されるという大変なことに遭遇していた。
そして、救出されるまで1カ月以上の間、犯人たちから酷い仕打ちを受け、助け出されたときは生死の境の危険な状態だった。
一命は取りとめたが身体のダメージだけではなく、心にも酷いダメージを負ってしまっていた。
結局、3か月という長い期間、入院生活を強いられた後、やっと退院することができた。
佳奈は、自宅に戻っても、入院中と変わらず誰かと会うことをかたくなに拒み、自分の殻に閉じこもってしまっていたし、佳奈の父親の一樹や茂子が話しかけても、相槌を打つくらいで、自分から話をすることは一切なくなってしまっていた。
食事も茂子が注意しないと自分から食べようともせず、毎日、無気力にベッドの上で壁に寄りかかり窓の外を見ているだけだった。
週に一度、通院し身体のチェックと、精神科のカウンセリングを受けていたが、とくに精神面は一向に好転しない状態が続いていた。
両脚の麻痺には、早期のリハビリが必要だったが、佳奈の心の状態がリハビリをままならないものにしていた。
佳奈にとっては、自分の身体が自由に動かせないことが、尚更、鬱をひどくするという悪循環だった。
茂子はそんな佳奈を、以前のような元気で明るい佳奈に戻してやることはできないかと考えあぐねていた。
そこで、茂子は舞に相談し、少しでも刺激になって、好転するきっかけになればと、同い年で幼馴染の春彦を佳奈に会わせることにした。
春彦と佳奈は、母親通しが親しい仲で、また、家も同じ町内だったことから、物心ついた時から一緒に遊んでいた。
また、どちらかが元気でない時も、二人が揃うと、ともに元気になっていたことを、茂子はよく覚えていた。
佳奈は、茂子から春彦が見舞に来るという話を聞いた時、絶対に嫌だと拒否していた。
入院中も春彦は足しげく病院に見舞いに通っていたが、佳奈は頑固として拒絶し会うことができなかった。
しかし、茂子の必死の説得で、渋々、会うのを了承したのだった。
ただし、それは、諸刃の剣で、逆に、佳奈の精神状態がさらにひどくなることも考えられるので、担当の精神科の医師からは、慎重に、佳奈の様子がおかしくなったと感じたらすぐに引き離すようにとアドバイスを受けていた。
(おいおい、何か押し付けられた感じがするな。
佳奈には会いたいんだけれど、何とかしろとか、危うくなったら、すぐ退散しろだなんて、人を何だと思っているんだろう。)
あまり気乗りのしない反面、佳奈に会いたい気持ちもあり、春彦は胸中、複雑であった。
佳奈も春彦も大学を卒業し、社会人1年目が過ぎようとしていた。
春彦は、会社があるので、佳奈の見舞いを日曜日に設定した。
その前の日の夕飯時、舞が春彦に話しかけた。
「春、ちょっと飲まない?
いいお酒が入ったんだ。」
「いいけど、明日、佳奈に会いに行くんだから、酒臭かったらどやされるだろ。」
「どやされると、いいんだけどね…。」
夕飯のおかずをつまみにしながら、二人はお酒を飲み始めた。
「佳奈ちゃんの状況は、この前、茂子からの電話の通りで、今も変わってないらしいわ。」
「そうか。
そんな時に、おれが行って大丈夫なのかな。」
「うーん、それは、わからないけど、あなた達は、小さいころから仲良しだったでしょ。
まあ、幼馴染、変な言い方だけど、特別な関係っていうのかな。」
「小さい時からって言っても、佳奈と友達のように話すようになったのは、中学に転入してきた時からだよ。」
「あら、小学校上がって引っ越しするまで、こんなちっちゃい時から、よく遊んでいたじゃない。」
舞は、床から60cmくらいの高さのところに手を浮かしてみせた。
「それ、入るの?」
「オフコース、もちろん。
幼稚園で、いじめっ子にいじめられていた佳奈ちゃんを助けたりしていたじゃない。」
両方の母親が同級生で仲が良く、結婚してもご近所さんだったので、春彦と佳奈は公園デビューからの付き合いだった。
その後、春彦の父親の仕事の関係で小学校低学年の時に引っ越し、一時期疎遠になっていたが、春彦が中学2年の時に、再び、この町に戻って来て、同じ中学だった佳奈と再会を果たしていた。
「うーん、助けなくても、十分、佳奈は強かったと思んだけど。」
「バカ言わないで。
佳奈ちゃん、随分怖い思いをしていたのよ。
あとで、茂子から佳奈ちゃんが春に助けてもらったって、すごく怖かったんだって、だから、すごく嬉しかったみたいって聞いたわよ。」
「そう…。
そう言えば、このお酒、おいしいね。
でも、ラベルがないや。
なんていうお酒?」
春彦は、何か恥かしくなり話を変えた。
「このお酒?
ふふふーん、『処女の香り』っていうお酒で、レアもんだよ。」
「『処女の…』って、どこで、そんな妖しいお酒を仕入れたの!!」
自慢げにお酒の銘柄を語る舞に対し半分あきれた春彦だった。
「さて、で、佳奈ちゃんなんだけど、小さい時から、春に逢うと元気になるって茂子が言っていたの。
その記憶が、茂子に痛切に残っていたというか、藁にもすがる気持ちになったのかしらね。
だから,頼まれたってこと。」
お酒の銘柄の話など無かったかのように、舞は話を続けた。
「だけど、佳奈は、まだ、誰にも会いたがっていないんだろ?
俺にも会うの、嫌がってたんだろ?
会いに行って逆効果にならないかなぁ。」
「そんなこと、わかんないわ。
刺激で良くなるかもしれないし、逆にもっと悪くなるかもしれないしね。
でも、何かしないと、何かきっかけがないと変わらないでしょ。」
「おいおい…。
それで、危くなったら、おれの判断で、すぐ帰れとかといわれてもなぁ…。」
「まあ、それは、春だからわかるでしょう。
あなたは、小さい時から、そういうところが敏感だったじゃない。
だから、落ち込んでいる子がいたら励ましていたじゃない。
誰だっけ、小学校の時に『僕が、お父さんやお母さんに、もっと遊ばせてと言ってあげるから』なんて言って。
勉強が嫌で逃げてきた子を励ましてあげていたじゃない。」
「おーい、それ、なんか次元が違うよ。
それより、佳奈にどういう態度で接すればいいかなぁ。
何を話したらいいんだろう…。」
「それは、春に任せるわ。
話すことがなければ、黙っていてもいいんじゃない?」
「なんか、それって逆に変じゃない?」
「まあ、考えこんでも仕方ないってこと。
あとは、出たとこ勝負ってね。
さっ、飲もう、飲もう」
「だからさぁ、明日、見舞に行くんだって。」
「どうせ、午後からでしょ?
じゃあ、大丈夫。」
「おいおい。」
春彦は、お酒を飲みながら考え込んでいた。
(さて、明日はどうしようか…)
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